― まごころで聖書を読む。そして、混迷の時代を神への信頼と希望をもって、力強く前進する ―
We read the Bible with all our hearts. And we move forward powerfully in this era of turmoil with trust and hope in God.
■上の「ネットエクレシア信州」タッチでホーム画面へ移動
Move to home screen by touching “NET EKKLESIA” above.
最終更新日:2024年10月9日
■サイト利用法はホーム下部に記載
<信仰と人生
信仰に生きる 018
2016年9月16日改訂
矢内原忠雄
〖鷲のごとくに〗
イザヤ書40章
〔-老いてなお、いのち溢れ-〕
1
イザヤ書第40章は通常「第2イザヤ」と呼ばれる預言書の巻頭にあるが、これはイスラエルの民がバビロン捕囚(ほしゅう)から解放されて本国に帰還し、荒廃した国土を復興するようになった頃の預言であり、帰還の喜びと復興の希望をもって、ともすれば意気消沈しそうになるイスラエルの民を励ました言葉である。
このような歴史的背景を持つ預言であって、国難を経験して国土は戦禍(せんか)を被(こうむ)り、人口は減少し、国力の疲弊(ひへい)したすべての国民に対して、復興を約束する慰めと励しの預言として学ばれるのみでなく、個人の生涯においても極めて適切な教えがこれから学びとれるのである。
今日は特に、これを老人に対する慰め〔と励まし〕の預言として学ぼうと思う。
「慰めよ、慰めよ、わが民を」と君たちの神が言われる。
「エルサレムの心に語り、
これに呼ばわれ、
『まことにその服役の期(とき)は終わった、
その咎(とが)は赦されて、
すべての罪を倍するものを
ヤハヴェの手より彼女(かれ)は受けた』と」。(イザヤ書40章1、2節、関根正雄訳)
「服役の期(とき)」というのは、兵役、刑期、労働契約の年期など強制的労役に服すべき期間のことである。ここではイスラエルの民がバビロンに捕囚となっていた奴隷労働と強制移住の期間が終り、〔ペルシャ王クロスの〕解放令と本国帰還の許可が出たことをいう。
しかしこれを個人の生涯に応用して考えて見れば、苦難のどん底にあえぐヨブがその苦しみから解放される日を切に待ち望んだ心境が連想されるのである(ヨブ記 7:1~4参照) 。
人は老年期に入って自己の生涯を回顧するとき、さまざまな苦労から解き放されて、自分の一生の幕が平安のうちに静かに下りることを切望する。〔この世での〕わが服役の期(とき)が終り、苦難の生涯から解放される日を切に待つのである。
それに対して神はねんごろに-心やさしく慰めの言葉を告げられる。
ひとつの声〔が〕呼ばわる、
「砂漠に敷(し)けよ、ヤハヴェの道を、
直(なお)くせよ、荒野に、われらの神の大路(おおじ)を。
すべての谷は高くされ、
すべての山と小山は低くされる。
起伏の地は平地となり、
丘は低地となる。
こうしてヤハヴェの栄光〔が〕あらわれ、
すべての人〔は〕これを見る。
これ〔は〕ヤハヴェの御(み)口の語られたこと」。(3~5節)
荒野は、すなわち砂漠である。
バビロンからユダヤに帰る道は、北部アラビヤの砂漠を横断する。イスラエルの民の本国帰還に備えて、この街道(かいどう)に修復を加えよ。
ヤハヴェの神みずからイスラエルの民を導いてこの道を通り、本国に伴い帰ってくださるであろう、というのである。
人生の晩年において天の故郷に帰って行く日が近づけば、神はわれわれの人生行路の低いところは高くし、高いところは低くし、曲ったところはまっすぐにし、起伏の地は平地にして、われわれが天に昇る道を備えてくださるであろう。
荒野のようなわれわれの人生を縦断して、真っ直ぐに天の故里(ふるさと)に帰る最短距離の直線道路が開ける。
多く悲しみ、多く労し、悲哀と苦難の「ベカの谷(涙の谷)」を通って来たわれわれが、神に慰められ、神に励まされ、神に伴われて、希望と喜びの歌をうたいつつ御国(みくに)に進んで行くさまを見て、世の人々は目を見張るであろう。
ヤハヴェの栄光が現れて、人〔は〕皆これを見るであろう。
すべての人は草、
その栄えはみな野の花のよう。
草は枯れ、花はしぼむ、
ヤハヴェの霊風(いき)その上を吹けば。
まことや〔この〕民は草、
草は枯れ、花はしぼむ、
だがわれらの神の言(ことば)は永遠(とこしえ)に立つ。(6~8節)
「ヤハヴェの霊風(いき)」というのは、風のことである。砂漠を越えて来る熱風が吹けば、一日で草は枯れ花はしぼむ。日本でも、一夜の嵐で散る花の譬(たとえ)があり、ましてや台風一過(いっか)、木は倒れ、家は流〔さ〕れる。
国民の興亡も、人の栄枯もはかないものであって、ヤハヴェの霊風がその上に吹けば、あれほど強大を誇ったバビロン帝国も、たちまち瓦解(がかい)する。ただ永遠に立つものは、われらの神の言(ことば)だけである。
高い山へと上れ、
シオンへの喜びの使者よ、
力一杯の声をあげよ、
エルサレムへの喜びの使者よ、
声をあげて、恐れるな、
ユダの町々に言え、
「見よ、君たちの神〔を〕!」と。(9節)
これは山の高き所に立てた斥候(せっこう)に向かって、砂漠の道を帰ってくるイスラエルの民の姿が見えたらば、声をあげて、これをエルサレムに伝令せよ、と言ったのである。
ヤハヴェが民を率(ひき)いて来られる。それゆえに、「見よ、君たちの神〔を〕!」と言うのである。
見よ、主ヤハヴェ、〔彼は〕力を帯びて来られる。
そのみ腕は統(す)べ治める。
見よ、その報酬(むくい)はそのもとに
その報償はその前に〔ある〕。(10節)
ヤハヴェは、大いなる力と正しき審判によって民を導いて来られる。
神を信じて依(よ)りたのんできた民は、神から褒美(ほうび)の賜物(たまもの)を与えられるであろう。〔バビロンでの〕捕囚の生活に耐えて労働をつづけた者は、神から働きの報酬を与えられるであろう。
信頼と忍耐によって長い人生の悲哀と苦難の道を歩んできた者を、神は力強き御腕(みうで)により守り、「よく耐えてきた、よく働いた」と言っていたわって下さり、神の報酬と報賞を与えて下さるのである。
わが人生は空しく、その誇るところはただ勤労と悲しみのみ(詩篇90篇10節)、ああ失敗の一生であったと嘆いても、〔それにもかかわらず〕神はわが涙をことごとく〔記憶し、〕神の革嚢(かわぶくろ)に蓄えてくださって、その水滴に輝く虹をかけてくださる。
神がわが労働の値(あたい)を払って下さるであろう。わが人生の骨折りを人は無視し、人がわたしに与える報酬はただ苦杯だけであっても、神がわが労苦を知っていて下さって、わが人生の労銀を払って下さるであろう。
牧者のように彼〔ヤハヴェ〕はその群れを牧(か)い、
そのみ腕にいだく。
小羊を懐(ふところ)にかかえ、
母羊をみちびき行く。(11節)
これは牧者(ぼくしゃ)が羊の群れを導く比喩である。
足の疲れた小羊を腕に抱(いだ)き懐(ふところ)に入れ、乳をふくませる母羊をやさしく導いて行く。
導く者(ヤハヴェ)のやさしい愛と、従って行く者の信頼し切った平安とが、その美を詩篇第23篇と競っている。
年をとれば人は気が弱くなり、涙もろくなる。老人を責めるな。老人にやさしくしなさい。
神はこのようにやさしい心とやわらかな手によって、長い人生の苦難の道を歩んで来た者を導き、御国(みくに)に携(たずさ)え入れて下さるのである。
2
預言者はこれに続いて、ヤハヴェが天地(宇宙)万物の創造主である唯一の神であって、彼に比べればもろもろの国民は無きに等しく、世の神々は偶像に等しいこと、地上の王者、権力者は僅(わず)かに勢力を張るように見えても、神の息がその上を吹けばたちまち枯れて、藁(わら)のように暴風にまき去られること、を述べる(12~24節)。
内容的には6~8節のくり返しと展開であって、バビロン〔帝国〕を審かれたヤハヴェの大能を褒(ほ)め讃えたのである。
これを受けて預言者は再び、イスラエルの民に対するヤハヴェの深き愛を歌う。
「だのに君たちは、わたしを誰に似せて比べようとするのか」と聖〔なる〕者(ヤハヴェ)は言われる。
眼をあげて、高きを見よ、
誰がこれらを創造したか〔を〕。
彼(ヤハヴェ)は数を数えて万象を引き出し
そのすべての名を呼ばう。
勢い盛んにして、力大いなる彼は
何人(なにびと)をも見過ごされない。(25、26節)
「万象」というのは、多くの星のことである。星の数は多いけれども、神はその一つひとつの名を呼んで、天空に上らせる。
星座もしくは、遊星が天空に上るのを見よ。
その時において誤ることなく、その数において欠けるところはない。どの小さい星の一つも、神の注意から落ちるものはないのである。
神の力の強さは、神の愛の深さに実質を与える。創造主である神の能力は、造られたものに対して示される神の愛の実力〔の裏付け〕である。
なにゆえヤコブよ、君はつぶやき
イスラエルよ、君は言うのか、
「わが道はヤハヴェに隠れ、
わが訴えはわが神の前を過ぎ去る」と。
君は知らないか、
聞かないか、
ヤハヴェは永遠(とこしえ)の神、
地の果ての創造者、
疲れることなく、倦(う)むことなく、
その悟りは究(きわ)めがたい。
疲れた者に力を与え、
力なき者に強さを加える。(27~29節)
「ヤコブ」は別名「イスラエル」であって、ここではイスラエル民族を指している。
長年の間、バビロンで捕囚の境涯に泣いた時、イスラエルは嘆いて言った、神は彼らをかえりみられない、と。ついに解放令が出て本国帰還の旅路についても、砂漠を縦断する道の長さと物憂(ものう)さに、彼らの足も心も疲れ果てたであろう。
しかしながら能力(ちから)と知恵と愛に満ちておられる〔神〕ヤハヴェが彼らと共にいる。疲れを知らないヤハヴェが、疲れた弱い人間に力を与えて下さる。
小さき子はヤハヴェ自らが腕に抱き、懐に入れ、母羊はこれをゆっくりと柔かに優しく導いて下さる。打たず、責めず、急がせず、弱き者自身の歩調に合わせて、これを導いて下さるのである。
若き者も疲れて倦(う)み、
壮者も躓(つまづ)き倒れる。
だがヤハヴェを待ち望む者は力を得、
鷲(ワシ)のように翼(つばさ)を張る。
走るとも倦まず、
歩むとも疲れない。(30、31節)
青年、壮年の者でさえも疲労を感ずることがある。まして老年者は、体力のはなはだしい衰(おとろ)えを感じる。
しかし人の生命は体力だけの問題でなく、体力はまた年齢だけの問題ではない。それはまた、気力、精神力の問題でもある。
しかし人の気力、精神力もまた衰える。これを衰えさせないものは、信仰の力である。
信仰によって与えられる聖霊(せいれい)の力は、神の能力(ちから)であるから衰えることなく、疲れることがない。
信仰によってヤハヴェを待ち望む者は、新しい種類の力を聖霊によって与えられ、鷲(ワシ)のように翼を張って天に昇り行くのである。
この力は、走っても疲れず、歩いても倦まず、力より力へと進み、ついに各々(おのおの)シオンに至って神にまみえるのである(詩篇 84:7参照)。
信仰こそ、永久の若さを保つ力である。
信仰に生きる老人は、過去をかえりみて嘆かず、愚痴を言わず、最後まで積極的な力をもって前進する。
この世〔における生〕はバビロン捕囚のごとく〔であって〕、この世から天国に進む道は砂漠の大路のようであっても、ヤハヴェの神が共にいて力と愛によって導いて下さるから、われわれは〔神をほめ讃え、感謝の歌を〕歌いつつ人生の馳(は)せ場を走り、「死」という最後の跳躍板に乗った時には、地を蹴(け)って翼を張り、鷲のように天〔の〕父〔なる神〕のもとに帰って行くであろう。
信仰に生きる老人にこの希望があり、これが彼の生命力である限り、彼は決して老い衰えることはないであろう。人生に希望を見失った敗残者として、失意の中に世を終ることはないであろう。
♢ ♢ ♢ ♢
(『嘉信』第22巻・第8号、1959〔昭和34〕年8月を現代語化。引用聖句に応じ、表現を一部変更。( )、〔 〕内は補足)