― まごころで聖書を読む。そして、混迷の時代を神への信頼と希望をもって、力強く前進する ―
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最終更新日:2024年11月5日
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1.わが生けるは 主にこそ依(よ)れ
死ぬるもわが益 また幸(さち)なり
2.富も知恵も みな主のため
力も地位(くらい)も また主のため
3.迫(せ)めも飢えも みな主のため
憂(うれ)いも悩みも また主のため
4.主のためには 十字架を取り
喜び勇(いさ)みて 我(われ)は進まん
(讃美歌 337番)
■人は何のために生きるのか、人生の最終的目標は何か、という問いを心に受け止め、私が探求の歩みを始めたのは、1938年〔、18歳のとき〕の事だった。
以後70年を経て、この問題に対する私の答えは一点に絞られていったのだが、上に掲(かか)げた讃美歌が、まさに的(まと)を貫(つらぬ)く回答である事に気づいて、豁然(かつぜん)と目を開かれる思いになった。
私が生きるのは、自己の主権を主(しゅ)の御手(みて)に明け渡し、自己の全存在を挙(あ)げて主に仕(つか)える事なのだ。
「主に仕える」とは、「隣人(りんじん)に仕える」業(わざ)として具体化される。
つまり「仕える」事が人生の中心問題となるのだが、「仕える」ためには、その主体である自己を鍛(きた)え、清く真実な人格への自己形成が、避ける事のできぬ課題となる。
しかしこれが単なる自己実現に終わる事なく、主に仕えるという大きな枠組みの中に位置づけられるという点が、大切なのだ。
そしてこの内容が、パウロの次の言葉によって見事(みごと)に総括(そうかつ)されている事に気づいて、豁然と目を開かれる思いであった。
「キリストの愛が私たちに強く迫っている。・・・
ひとりの人(キリスト)がすべての人のために死んだ以上、すべての人が〔キリストとともに一度、〕死んだのである。
そして、彼(キリスト)がすべての人のために死んだのは、〔彼と共に死んで、今や新しい命に〕生きている者がもはや自分のためにではなく、自分のために死んで甦(よみが)った方(キリスト)のために、生きるためである。」
(コリントⅡ 5:14-15)
しかしキリストを信じない人々は、自分の能力を養って事業に成功するとか、競争の場で勝利者となるとか、自分の得意とする分野で立派な業績を挙げるというような、自己実現への努力に終始するから、そこでは勝利者と敗北者に分極化するほかないだろう。
しかしこのような自己実現への執念(しゅうねん)から解放され、ありのままの自分を主に捧(ささ)げるという生き様(ざま)に導かれる事が、どんなに大きな解放となる事か。
そしてキリストの恵みこそ、この解放を実現に至らせる決定的出発点となるのである。
(2009年1月25日)
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(高橋三郎・島崎輝久共著『万人に迫る主の恵み』証言社、2009年。( )、〔 〕内は補足)
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