<信仰と人生

信仰に生きる 020

2017年5月4日改訂

高橋三郎

〖人生の目的〗

 

人物紹介004〖高橋三郎〗

1.わが生けるは 主にこそ依(よ)
  死ぬるもわが益
 また幸
(さち)なり

 

2.富も知恵も みな主のため
  力も地位
(くらい)も また主のため

 

3.迫(せ)めも飢えも みな主のため
  憂
(うれ)いも悩みも また主のため

 

4.主のためには 十字架を取り
  喜び勇
いさ)みて 我(われ)は進まん

(讃美歌 337番)

 

■人は何のために生きるのか、人生の最終的目標は何か、という問いを心に受け止め、私が探求の歩みを始めたのは、1938年〔、18歳のとき〕の事だった。

 

以後70年を経て、この問題に対する私の答えは一点に絞られていったのだが、上に掲(かか)げた讃美歌が、まさに的(まと)を貫(つらぬ)く回答である事に気づいて、豁然(かつぜん)と目を開かれる思いになった。

 

私が生きるのは、自己の主権を主(しゅ)の御手(みて)に明け渡し、自己の全存在を挙(あ)げて主に仕(つか)える事なのだ。

 

主に仕える」とは、「隣人(りんじん)に仕える」業(わざ)として具体化される。

 

つまり「仕える」事が人生の中心問題となるのだが、「仕える」ためには、その主体である自己を鍛(きた)え、清く真実な人格への自己形成が、避ける事のできぬ課題となる。

 

しかしこれが単なる自己実現に終わる事なく、主に仕えるという大きな枠組みの中に位置づけられるという点が、大切なのだ。

 

そしてこの内容が、パウロの次の言葉によって見事(みごと)に総括(そうかつ)されている事に気づいて、豁然と目を開かれる思いであった。

 

キリストの愛が私たちに強く迫っている。・・・

ひとりの人(キリスト)がすべての人のために死んだ以上、すべての人が〔キリストとともに一度、〕死んだのである。

 

そして、彼(キリスト)がすべての人のために死んだのは、〔彼と共に死んで、今や新しい命に〕生きている者がもはや自分のためにではなく、自分のために死んで甦(よみが)った方(キリスト)のために、生きるためである。

(コリントⅡ 5:14-15)

 

しかしキリストを信じない人々は、自分の能力を養って事業に成功するとか、競争の場で勝利者となるとか、自分の得意とする分野で立派な業績を挙げるというような、自己実現への努力に終始するから、そこでは勝利者と敗北者に分極化するほかないだろう。

 

しかしこのような自己実現への執念(しゅうねん)から解放され、ありのままの自分を主に捧(ささ)げるという生き様(ざまに導かれる事が、どんなに大きな解放となる事か。

 

そしてキリストの恵みこそ、この解放を実現に至らせる決定的出発点となるのである。

(2009年1月25日)

 

♢ ♢ ♢ ♢

 

(高橋三郎・島崎輝久共著『万人に迫る主の恵み』証言社、2009年。( )、〔 〕内は補足

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