<信仰入門

無教会入門 011

2017年5月1日改訂

矢内原忠雄

教会論

 

〖無教会早わかり③〗

-教会論・無教会論の基礎-

 

無教会早わかり:  

 

神学・論文005高橋三郎〖最後の晩餐〗へ

〔3-①〕

講演の残り〕時間がだんだん乏しくなりましたので、あとは一層簡単に言わなければなりませんが、教会には洗礼のほかに聖餐(せいさん)という儀式(サクラメント)があります。

これは主のテーブルとも呼ばれ、カトリック〔教会〕では聖体拝領(ミサ)と言っています。

 

キリストが十字架にかかられる前の晩に、十二人の弟子と最後の晩餐(ばんさん)を共にされた時に、パンを裂いて、「取って食べなさい。これはわたしの体である」と言われ、またぶどう酒の杯(さかずき)を廻して「この酒杯から飲みなさい。これはわたしの契約の血である」と言われた(マタイ26:26~28)。

 

そのことを記念して、教会でパンを裂き、ぶどう酒〔またはぶどうジュース〕を飲んで、キリストの命令された言葉を守っていく。これが聖餐と言われる儀式であります。

 

 

〔3-②〕
この聖餐ということも、やはり象徴であり、伝統であります。パンそのもの、ぶどう酒そのものに〔特別の〕意味があるわけではありません。

 

しかし、〕カトリックでは「〔ミサで祭壇に捧げられたパンとぶどう酒は、聖職者によって〕聖餐式で祝された瞬間に、キリストの肉と血に化体するのだ」と言います(化体説)。

 

16世紀のドイツの宗教改革者〕ルターは、「キリストの肉体の本質が、パンとぶどう酒と共にある」と言います(共在説)。

 

これに対し〔スイスの宗教改革者〕ツヴィングリは、「パンとぶどう酒は、イエスの肉と血の象徴にすぎない」と言いました(象徴説)。


れら見解の相違のために、ずいぶん議論をし、憎み合ったものであります(注1)

 

私ども〔無教会のキリスト信徒〕から見ますと、つまらない所に力こぶを入れたものだと思いますが、〔制度〕教会の人々から見ますと、つまらないどころか、生命(いのち)のやり取りをするほどの大問題でありました。

 

〔最近では、2010年1月、日本基督(キリスト)教団による、同教団・紅葉坂教会の北村慈郎牧師の免職処分問題を契機に、洗礼を受けていない者が聖餐にあずかること(陪餐)が許されるかどうかをめぐって、教団を二分する論争が続いている(注2)。〕


〔3-③〕

ヨハネ福音書6章を見ますと、イエスは「人の子〔わたし〕の肉を食べず、また、その血を飲まなければ、あなたがたの内に生命(いのち)はない。わたしの肉を食べ、わたしの血を飲む者には、永遠の生命(いのち)があり、・・」と言われた〔とあります〕(ヨハネ6:53、54)。

 

これを聞いた弟子たちの中の多くの者が「これはひどい言葉だ。だれがそんなことを聞いておられようか」と言って呟(つぶ)やいたと記されていますが(6:60)、これを言葉通りにとれば、誰だって驚く。聞いただけで、ゾッととする事柄であります。


しかしまさか、イエスが人食人種のように、自分の肉を食べ、血を飲みなさいということを言われたのでないことは、誰でも分かります。

 

イエスがこの〔ような〕言葉を用いられたのは、ある教えを非常に強い象徴的な言葉で表現されたのでありまして、その意味するところは、イエスを信ずるということである。


〔3-④〕

イエスの言葉は、〕表面だけでなく、形だけでなく、本当に自分の血となり肉となるように、イエスを信じなさい。イエスを食べてしまうほどに、イエスを信じなさい。イエスと一つになりなさい、という教えである。

 

イエスを自分の生命(いのち)としなければならない。イエスを自分の栄養とし、自分の血とするようにイエスを信じなさい

 

このイエスを信するということを、強い言葉で象徴的に教えられたのが、人の子の肉を食べ血を飲みなさいということなのです。

 

聖餐ということの意味も全くそこにあるのです。

イエスを信ずるということと、同じイエスを信ずることによってあなた方は一つの〔イエスの〕肉に連なる兄弟姉妹であるということ、この二つのことを象徴するものが聖餐という儀式なのです。


〔3-⑤〕

これに類似した慣習も、昔から色々の民族で行われていたことでありまして、中国の小説に『三国志』というのがありますが、関羽と張飛とが兄弟の誓いを立てる時に、肱を切って互に血をすすり〔合い〕ます。

 

台湾のある蕃社では、兄弟の誓いをする時に長い竹の筒に酒を入れ、飲み口を両端につけまして、同時に口をつけて酒を飲む。それによつて一つに連なり、兄弟となる。

こういう儀式は、色々の民族に色々の形であります。


キリストはパンを裂きぶどう酒を飲むということによって、信仰によってイエスと一つになるということと、イエスを信ずる者は兄弟として一つになること、その二つのことを示されたのです。だから、それは象徴なのです。

 

そして、それは非常に深い意味のある象徴ですから、イエスが〔復活して、〕天に昇られた後、弟子たちの間で行われ、それが教会の伝統〔的儀式〕として伝わってきたのです。

 

けれども、もちろん重要なのは〔その〕意味であって、象徴〔としての儀式〕ではありません


〔3-⑥〕

パンとかぶどう酒とかいうこと〔自体〕に、何か特別の意味があるわけでない。

 

日本の東京のどこかその辺〔の商店〕で買ってきたパンを裂いて、「これはイエスの肉である」と言ってみたところで、それは〔単なる物体としてのパンであって、生ける〕イエスとは何の関係もない〔のは、自明です〕。

 

また、もしパンがなかったらどうするか。聖餐をするために、わざわざ苦労してパンを買い、ぶどう酒を買ってくる必要があるのか。

 

パンやぶどう酒は、日本人は〔食生活上、〕元々は知らなかったもので、日本では〔パンとぶどう酒に相当するものは〕、米の飯と米の酒だけであった。

ですから、日本人として〕米の飯を食べ、米の酒を〔一緒に〕飲んだのでは、聖餐ができないのか。一杯の茶碗の飯を皆でつついて、食べ合う。これで聖餐を行ったと言うことが、なぜできないのか〔。

 

そもそも、イエスが最後に持った晩餐は、元来、ユダヤ社会における普通の食事であった可能性が十分にある(注3)。また、イエスの弟子たちが持った「聖餐」は、普通の食事すなわち「愛餐(あいさん)」の中で同時に、同じ場所で行われていた(注4)〕。


〔3-⑦〕

このように考えて見れば、パンとぶどう酒〔そのもの〕に〔特別の〕意味があるわけでない。

すべてそれは、シンボリズム(象徴)であり、トラディショナリズム(既成宗教の伝統)であるということが分かります。

 

イエスと一つ生命に連なり、それによってまた、互いに一つに連なることを記念することが〔聖餐の〕本来の趣旨なのですから、それを象徴するためには、何もパンとぶどう酒でなくてもよい

 

パンとぶどう酒であってもよいけれども、パンとぶどう酒でなくてもよい。米の飯と米の酒でもよいし、それがなければ他のものでもよいし、あるいは何も無ければ何も無くてもよい。一緒に弁当を食べてもよいし、食べなくてもよい

〔3-⑧〕

食べるということに拘泥(こうでい)することはないのであって、共に聖書を学び、共に祈り、共に手をとり肩を組んで、イエスが私におり、私がイエスにおり、またイエスにおることによって我々が互いに一つとなるという信仰を新たにすれば、それで立派な聖餐であります。

 

パンとぶどう酒がキリスト者を造るわけではないのです。

それは一つの形であり、象徴であるのですから、強いてその形をとらなくてもいい。精神が把握され、それが我々の生活に実現されるならば、それでよいのです。


〔3-⑨〕

あるいは「取って食べなさい、「取って飲みなさい」と、はっきり命令されているでないかと言われるかも知れませんが、それならイエスが弟子たちを伝道に派遣される時「旅には何も持って行ってはならない。杖も袋もパンも金(かね)も持って行ってはならない」と命令されている(ルカ9:3)。

しかし今時、電車賃も持たないで伝道に出かける人はいないでしょう。

 

パウロが言ったように、「文字は人を殺し、〔キリスト・イエスにある生命の〕 霊は人を生かす」です(コリントⅡ 3:6 口語訳)

神は霊でありますから、〔硬直化した文字の形式によってではなく、〕霊と真実(まこと)をもって、神に仕えなければなりません。

 

聖書に記されている事柄も、その時代の社会事情や生活慣習から出ている象徴的もしくは伝統的な記事は、その精神を守って、その言葉〔の表面〕に〔囚(とら)われず、また〕拘泥(こうでい)しないようにする必要があるのです。

 

〔つづく〕

 

♢ ♢ ♢ ♢

 

(矢内原忠雄 1947〔昭和22〕年3月30日内村鑑三記念講演(今井館)「無教会早わかり」、『嘉信』第10巻第4号1947年4月収載、矢内原忠雄著『内村鑑三とともに』矢内原勝編集、東京大学出版会、1962年収載。一部表現を現代語化。( )、〔 〕内は補足。下線は引用者による)

 

注1 聖餐をめぐる論争

宗教改革者たちの間で、激しい「聖餐論争」が交わされた。またルター派は、カトリック教会の「聖体変化」の考えを「坊主の作りごと」と非難した。

 

注2 北村慈郎牧師の免職処分問題 

2010年1月、日本基督教団・紅葉坂教会の北村慈郎牧師が、未洗礼者に聖餐を受けさせた(オープン聖餐)廉(かど)で、同教団から戒規免職処分を受ける事件が発生した。

 

その後、この処分の不当を訴え、教団執行部との間で裁判闘争が展開された(『戒規か対話か-聖餐をめぐる日本基督教団への問いかけ-』新教出版社、2016年参照)。

 

注3 初代教会の聖餐式の日常的な性格

①「イエスが最後に持った晩餐は、元来、ユダヤ社会における普通の食事であった可能性が十分にある」という見方は、最近の新約聖書学の有力見解である。

(荒井献「新約聖書における『聖餐』再考」『初期キリスト教の霊性』岩波書店、2009年、71項の引用)

 

②「〔初代教会の〕聖餐式はその素朴な形式において、敬虔なユダヤ人の家族の中で日常的な夕食に際して、パンが裂かれ感謝の杯(さかずき)が〔家族の間で〕回されたあのユダヤ教のシャブラに密接に結びついている。

 

日常的な夕食のこの素朴さにおいて、それ(聖餐式)は神秘的諸宗教の様々な祭儀とは区別される。

それはあの初期〔キリスト教〕の時代に、信徒たちの家々で日ごとに祝われていたように、日常の日々の聖化である。」

(エミール・ブルンナー Emil Brunner 『ブルンナー著作集第4巻 教義学Ⅲ』1998年、p92。( )、〔 〕内、および下線は引用者による)

 

注4
コリントⅠ 11:20~22参照。

参考文献:高柳富夫「開放的・包括的聖餐論」『戒規か対話か』新教出版社、2016年、52項

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