<信仰入門

無教会入門 009

2020年5月31日改訂

矢内原忠雄

教会論

 

〖無教会早わかり①〗

-教会論・無教会論の基礎-

 

無教会早わかり    

 

評伝・矢内原忠雄へ

1

〔1-①〕
内村鑑三先生が〔天に〕召されましたのは、1930〔昭和5〕年3月28日であります。〔あれから17年、われわれは激動の時代をくぐり抜けてきました。〕

ご承知のように先生は無教会主義というものを唱(とな)えられましたので、今日の〔内村鑑三記念講演の〕演題は、「無教会早わかり」といたしました。


キリスト教のことを学ぼうとする人が教会に行きまして、しばらく行っておりますと、〔牧師から〕「洗礼をお受けなさい」と言われる。

洗礼の意味もよくわからないうちにこう言われて、困ることがある。

 

あるいは教会の会員となっておりまして、どうもぴったりしないことがあって教会を出たいと思うが、なかなか許されないで、教会を出ればキリストの救いから離れてしまうかのごとくに言われる。

そういうぐあいに、実際問題として教会ということにぶつかることが多いのであります。

 

〔1-②〕
教会という〔訳〕語の原語は、ギリシャ語の「エクレシア(ekklesia、εκκλησια)」であります。

エクレシアは元来〔、宗教上の用語ではなく〕、ギリシャの都市国家の、正式に召集された市民議会〔を指す言葉〕でありました。使徒行伝第19章39節に「〔正式な〕議会」とあるのが、この意味での用例であります。

 

この語を利用しまして、〔初代のキリスト信徒たちは、〕ユダヤ人(ユダヤ教)の会堂すなわちシナゴグと区別するために、キリスト信徒の集まりをエクレシアと呼んだのです。

つまり、聖書に記されている時代のエクレシアは、キリスト信徒の集会というだけの意味であった。〕


「教会」という訳語は、宗教的〔な〕エクレシアの意味を現わすものとして良い訳語でありますが、今日の具体的な教会は〔、後世の「伝統」によって組織化されてできた制度的組織体であって〕、聖書に記(しる)されているエクレシア〔すなわち、キリストに連なる兄弟姉妹の霊的・人格的共同体〕とは、だいぶ性質の違ったものになっている。

 

聖書に記されているエクレシアは、たいていは家のエクレシアと言い、家庭集会であります。

 

地域的にコリントのエクレシア(教会)とかエペソのエクレシア(教会)とか〔聖書で〕言いましても、その性質は家庭的集会でありまして、今日あるような教会の制度(制度教会)は、初代教会の時〔代〕にはまだ、無かったのです。

 

〔1-③〕
聖書には、エクレシアという語のほかに
バシレイア(basileia、βασιλεια)という語があります。

それは、神の国の「国」という言葉〔の原語〕です。キリスト者の集り〔、すなわちエクレシア〕と神の国とは、共通の内容をもつている。


ルカ伝の17章〔20~21節〕を見ますと、

「ファリサイ派の人々が、神の国はいつ来るのかと尋(たず)ねたので、イエスはお答えになった。「神の国は、観察できるようなしかたでは来ない。〔また人々が、〕〔見よ〕ここにある』とか『あそこにある』と言えるものでもない。実に、神の国はあたがたの中にあるからだ。」

こう〔聖書に書いて〕ある(聖書協会共同訳)。

つまりイエスは、ファリサイ派の人たちに対し〕神の国は見える形では来ない。〔神の国は〕あなたがたの〔ただ〕中にある〔のだ、と言われる〕。

この〕「あなたがたの中に〔ある〕」と言いますのは、二様の意味がありまして、〔まず、〕「あなたがたの心の中にある」という意味にもとれます。〔神の国は、あなたがたの〕外側の形ではなくて、心の中にあるんだ。

 

しかし〔また、〕単にわれわれの考えの中にある、〔われわれの〕思想の中にあるという観念的な存在ではなくて、〔具体的に、〕あなたがたお互いの交わりの中にある。あなたがたお互いの愛の中にあ

あなたがた〔の〕お互いの心と心との愛の交わり、それが神の国だ。こういう意味にも、とれる。


聖書では、〔主にある〕霊的〔れいてき、人格的〕な交わりをコイノニア(koinonia、κοινωνια)」という語で表しておりますが、神の国は信徒お互いのコイノニア(交わり)である。霊的なものである。〔人間の五感によって直接的に認識できるような、〕物的な、形のあるものでない。

こういうふうにイエスが言われた。


しかしまた、聖書〔の別の箇所〕を読みますと、神の国は具体的なもの、現実的なもの、歴史的なものとして地上に実現されるそういう意味でも、述べられております。

 

〔1-④〕
そこで
神の国というものは、目に見えない霊的な意味と、具体的な歴史的意味と、両方の意味を含んでいる〔ことが分かります〕。

エクレシア性質も、それと同様でありまして、霊的な意味合いと社会的な意味合いとがある〔のであります〕。


霊的面〕に〔ついて〕言えば、エクレシア愛の交わりである。〔また、具体的に〕生活に現れたものとしては〔、エクレシアは〕、兄弟姉妹の一団〔、つまり共同体〕である。

 

英語でクリスチャン・ブラザーフッド〔christian brotherhood〕という語がありますが、エクレシアの本質は、キリストを信ずる者の兄弟姉妹の〔愛の〕交わりである。

すなわちそれは、家庭的〔なもの〕である。〔実際、〕神を「父」と呼び、キリストを「長子」と称し、キリストを信ずる者を「兄弟姉妹」と言うのは、皆(みな)家庭的な言葉であります。


使徒行伝(ぎょうでん)の始めには、イエスが〔復活後に〕天に昇られた後(のち)、弟子たちは二階座敷(ざしき)のついている一つの家に滞在し、ガリラヤからついて来た婦人たちも一緒になって、心を一つにしてひたすら祈に努(つと)めていたことが記されています。

これが、最初のエクレシアでありました。


その後、弟子に加わる者の数が増えるにしたがい、〔集会内の〕実務の分担が分れて来ましたが、それは〔単に世話係というほどのものであって、〕決して今日の教会の「監督」、「牧師」、「長老」、「執事」というような制度化したもの〔、つまり教会規則で定めた役職〕ではなかったのです。

 

〔1-⑤〕
しかしながら、エクレシアも一つの社会生活〔の具体的な形態〕であり、社会生活〔の形態〕というものは、人数が増すにしたがい組織のできてくるのが自然の傾向であります。

また同じような生活様式をくり返すうちに、それが〔習慣化、〕形式化し〔て霊的生命が希薄となり〕、固定化して伝統をつくり、それに基(もとづ)いて〔教会〕制度(制度教会)が発生するようになります。


そして信仰の解釈や生活の様式の流儀に段々差異を生ずるにしたがって、信仰箇条(告白)や〔神学、さらに〕伝統や制度を異にする教派が分れて来ます。


さらに、〕信徒の人数が増して、家庭〔の集会〕では収容しきれなくなれば、別に集会の建物を必要とします。そこで、教会堂を建て〔るようになり〕ます。

また〕建てるとなれば、できるだけ立派に、壮大に建てようという〔世俗的な精神が入り込む〕ことになる〔。

そして、いつの間にか、立派な会堂を建てて、それを維持することが教会活動の目標となってしまう〕。


このようにして〔最終的には〕、聖書に記されている時代の〔貧しくとも、聖霊の生命に満ちた〕エクレシアとは似ても似つかぬ〔、この世的な既成宗教と化した制度〕教会を見るようになったのであります。

 

〔1-⑥〕
そこで、教会〔の本質〕とは何であるかということ〔を論じる場合に、そ〕の目じるしとして、〔次の〕三つのことがあります。


第一は、教会とは、教会堂〔、つまり建物〕のことか。
第二は、教会とは、一定の組織と伝統とをもつ制度〔的組織体〕のことか。
第三は、教会とは、キリストを信ずる兄弟姉妹の交わり〔のこと〕か。


この三つの問題を混同するから、教会論そのものが混乱してしまうのです。


教会の本質〔、つまり第一義的に大切なもの〕は、建物(教会堂)ではありません。〔当然のことながら、〕教会堂の壁は、〔真の〕信者をつくりません。

 

教会を建物だと思うから、信仰の復興を教会堂の復興と混同し、〔その結果、〕教会堂の建築と維持とにどれだけ必要以上の労力と費用とを投ずるか分からない。

そのために信仰は、復興するどころか、かえって〔宗教商売的な〕世俗的精神に蝕(むしば)まれてしまうのです。


また、〕教会の本質は、〔人の作り上げた〕制度〔的組織体〕でもありません。

これを制度だと思って〔、自分たちの〕伝統と組織とにこだわるから、〔主にある〕兄弟姉妹たるべきキリスト者が互に分裂して憎み合ったり、または〔組織の論理がまかり通って、〕信者のたましいの自由を圧迫して、外側の制度的一致を強要するようになるのです。

 

〔「二人または三人がわたしの名によって集まる所には、わたしもその中にいるのである

とキリストは言われました(マタイ18:20)。

エクレシア(神の教会)の本質は、このキリストの言葉によって道破(どうは)され尽くしているのです。

 

キリストを信じ、愛する者がキリストを中心にして集まる所、そこに現にキリストの教会(エクレシア)あるのです(注1)。集まる者の多少に関係なく。〕

 

教会本質はあくまでも、〔生けるキリストによって絶えず新しく建てられつつ、喜びを分かち合う〕愛のコイノニア(交わり)たるにあります。

 

人間の手になる〕建物も制度も、すべて第二義的〔・便宜的〕なものであって、それに拘泥(こうでい)するだけの価値の無いものです。

 

主イエスを中心とした〕兄弟姉妹の愛の交わりがエクレシア〔の本質〕であり、そしてそれだけがエクレシアである〔、その他のものは第二義的である。その〕ことを主張するものが、無教会主義であるのです。

 

それ(無教会主義)〔、救いを独占的に管理する救済機関として神と人々の間に介在し、形式的な伝統・儀式・制度に安住する死せる宗教に対して、生ける神に立ち帰り、霊と真実(まこと)をもって神を拝すべきことを主張した〕すべての宗教改革者と同一の精神に立つものであり、そして、それらすべてより更(さら)に一歩を進めたもの〔であります。

 

そして、無教会が原点復帰を目指すイエスの純福音は、個人を救うと共に、キリスト教の既成宗教としての殻(から)を打ち破り、さらには近代精神の行きづまりを突破して人類の文明を前進させ、日本と世界を救う神の力〕であるのです。

 

〔1-⑦〕
そこで〔次に〕、
教会論で言われる最もむずかしい問題、すなわち「見える教会」と「見えざる教会」という〔神学〕議論が起って来ます。


教会は可見かけん、見ることができる)であるか、不可見ふかけん、見ることができない)であるか。

しかし私が考えますに、〔実は、〕この議論は本当にヤボな議論であります。


エクレシアは〔キリストを中心とした〕愛の交わりであるから、目に見ることはできません。愛というものは、〔直接〕目に見ることはできないのであります。

しかしエクレシアの交わりは、具体的な生活となって現れなければ意味をなさない。

 

信仰において(タテ)にキリストに連なると共に、キリストを信ずる者同士が横(ヨコ)に愛の関係において連なる。見えない信仰の霊的関係は、見える愛の具体的関係となって現れる。そこに、エクレシアの本質があるのです。〕


たとえば、電気は目に見ることができません。

しかしその電気が照明となって灯(とも)るとか、あるいは湯沸器となって湯を沸(わか)すとか、あるいは電気マッサージ器となって体に刺激(しげき)を与えるとかしなければ、〔具体的に〕私どもの生活に入ってきません。私どもの生活から見れば、〔それは〕無いも同然なんです。

 

のように愛というものも、それが具体的に生活化しなければ、意味をなさないことであります。


ここに、たとえばこれだけの、200人の人がいるとしまして、この200人の人々の間の愛の交わりは目に見えません〔。視覚的に識別できません〕。目に見えているのは、人間の顔や形だけです。

ところで人間の顔や形を何百人寄せ集めたところが、〔それだけでは〕エクレシアにはなりません。それはただ、烏合(うごう)の衆(しゅう)であるだけです。

 

しかしまた、生きた人間の共同生活がなければ、愛の交わりであるエクレシアが具体化しない。無いも同然なんです。

だから、皆が集って一緒に讃美歌を歌い、一緒に祈りをする。一緒に聖書を学び、一緒に助け合う。その生活がなければ、エクレシアは抽象的な、観念的な存在となってしまいます。


エクレシア(神の教会)群集でもなく、また孤立でもありません〔。およそ、数の多寡(たか)の問題ではありません〕。

それは一つの集り〔、キリストのからだとしての生命共同体〕であることを必要とします

 

ただし集りと申しましても、必ずしも一定の場所に集合することを必要としません。

たとい一緒の場所に集ることができなくても、〔たとえば〕文通によって愛の交わりをもてば、それによって具体的な、目に見えるエクレシアに〔現に〕連(つらな)っているのです。

 

〔1-⑧〕
エクレシアにおける〔主にある〕霊の(人格的な)つながりはできるだけ強固であり、制度的つながりはできるだけ緩(ゆる)いことが、エクレシアの本質に適(かな)うものと思います。

 

クレシア(神の教会)本質は家庭的である〔こと〕から、エクレシアに存在する秩序の性質も家庭的であるべきです。

 

これを煩瑣(はんさ)な〕制度〔・規則〕で締め付けますと、〔生き生きとした〕霊的な交わりの自由を殺し、〔形だけの〕世俗的な虚偽(いつわり)と傲慢(ごうまん)とが〔人々の間に〕はびこるようになるのです。

〔つづく〕

 

 

♢ ♢ ♢ ♢

(矢内原忠雄 1947〔昭和22〕年3月30日内村鑑三記念講演(今井館)「無教会早わかり」、『嘉信』第10巻第4号1947年4月収載、矢内原忠雄著『内村鑑三とともに』矢内原勝編集、東京大学出版会、1962年収載。一部表現を現代語化。( )、〔 〕内は補足。《 》、線は引用者による)

 

注1 真の教会(エクレシア)

「『ふたりまたは三人が、わたし〔イエス〕の名によって集まっている所には、わたしもその中にいるのである』(マタイ18:20)。そこに教会はある。」

(K.バルト『教義学要綱』新教出版社、1993年、177項。原著Karl Barth,Dogmatik im Grungriss(1947)、下線は引用者による)

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