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3月<内村鑑三「一日一生」現代語訳

 

3月1日~3月5日

(2016年3月24日更新)

 

 

このページは、山本泰次郎、武藤陽一編『 一日一生』(教文館、1964年)を現代語化したものです。

 

【3月1日】神がキリストの十字架によって(十字架と救いの完成)

なぜなら、わたしはあなたがたの間で、イエス・キリスト、それも十字架につけられたキリスト以外、何も〔言うまい、〕知るまいと心に決めていたからです。(コリント 2:2)

 

神がキリストの十字架によって(ほどこ)される救いは、完全な救いである。

 

十字架の内に義(ぎ)があり、聖(きよ)めがあり、贖(あがな)いがあり、すべての知恵と知識がある。

それゆえ十字架を仰ぐことによって、信徒の救いは完成(まっとう)されるのである。

 

われわれは〔神の前に〕義とさたいと願うのか。〔その時、われわれは〕十字架を仰ぐのである。 

聖められられたいと願うのか。〔その時、われわれは〕十字架を仰ぐのである。

罪を〕贖(あなが)っていただきたいと願うのか。〔その時、われわれは〕十字架を仰ぐのである。

最も有効に神と人に仕(つか)えたいと願うのか。〔その時、われわれは〕十字架を仰ぐのである。

復活について、再臨(さいりん)について完全な知識を得たいと願うのか。〔その時、われわれは〕十字架を仰ぐのである。

 

神の〕恩恵はさまざまであるが、恩恵にあずかる道は〔ただ〕一つ〔、キリストの十字架を仰ぐこと〕である。(注12・168)

♢ ♢ ♢ ♢

【3月2日】キリスト信徒とは、誰か(霊の洗礼とキリストへの信従)

わたし〔イエス〕に向かって、『主(しゅ)よ、主よ』と言う者が皆、天の国に入るわけではない。わたしの天の父〔なる神〕の御心(みこころ)を行う者だけが入るのである。

 

最後の審きの〕かの日には、大勢の者がわたしに、『主よ、主よ、〔入れて下さい。〕わたしたちは御名(みな)によって預言し、御名によって悪霊を追い出し、御名によって奇跡をいろいろ行ったではありませんか』と言うであろう。

 

そのとき、わたしはきっぱりとこう言おう。『あなたたちのことは全然知らない〔、あなたたちを弟子にした覚えはない〕。不法を働く者ども、わたしから離れ去れ。』」(マタイ福音書 7:21~23)

 

キリスト信徒とは、誰か

洗礼を受けて教会員となった者〔が〕、必ずしも信徒〔なの〕ではない。内的に神の聖旨(みむね)を行う者-実際にイエスを主として〔拝し、イエスに〕信従する者-それが、〔まことの〕キリスト信徒である(たとえ形式上、〔その〕形と名は何であっても)。

 

真の洗礼は霊(聖霊)の恩化に浴すること〔-霊の洗礼-〕をいうのであって、儀文(式文 注1)の形式に従って受けた〔水による肉の〕洗礼〔が、即(すなわ)ち真の洗礼なの〕ではない(注2)

実際、水の洗礼を受けて教会員となった後、イエスに信従せず、また信仰を棄(す)てる者がたくさんいる。注3

 

それゆえ、〔人からではなく、神から直接、授かる〕心の洗礼〔、すなわち霊の洗礼〕のみが真の洗礼〔なの〕であって、その栄誉(ほまれ)は人によるのではなく、神による。

心の洗礼に対する〕人の判断はどうであれ、神はこれを〔嘉(よろこ)び、〕お賞(ほめ)くださる〔のである〕。

 

〔人の〕外面を見、〔神〕ヤハヴェは内面を見る。〔水の洗礼を受けているかどうかという、人の〕外面〔だけ〕を見る人〔間〕の〔いだく〕軽蔑や猜疑(さいぎ)は、数えるに値しない。

内面〔の信実〕に対して与えられる神の嘉賞(かしょう)のみが〔、真に〕貴(とうと)いのである。(注16・119)

 

 

注1 儀文(ぎぶん)式文(しきぶん)

礼拝、礼典・サクラメント(洗礼式、聖餐式等)、牧師の按手礼(あんしゅれい)、結婚式、葬式などの儀式の執行内容と式順を定め、また儀式の進行に伴って発せられる一連の文言(司式者の言葉、聖職者と洗礼希望者の間の信仰問答、会衆の言葉、聖職者の宣言・祈りの言葉など)等からなる。

教会、各教派から、出版されている。

 

注2 ヨハネの《水の洗礼》と、イエス・キリストの《霊の洗礼》

水で洗礼を授(さず)けるためにわたし(洗礼者ヨハネ)をお遣(つか)わしになった方〔、神〕が、『”霊”が降(くだ)ってある人にとどまるのを見たら、その人〔こそ〕が聖霊によって洗礼を授ける人である』と言われた。わたしはそれを見た。だから、この方〔イエス〕こそ神の子であると証(あか)しし〔てき〕たのである。」(ヨハネ福音書 1:33)

 

②教会で行われている水の洗礼の起源については、メニュー「聖書学」の中の洗礼・聖餐の起源と福音(原題「教会と無教会」)を参照。

 

注3 イエス・キリストの福音と安価な恵み(D・ボンヘッファー

ボンヘッファーによれば、「安価(あんか)な恵み」とは、「〔教会で〕投げ売りされた〔安っぽい〕赦し、慰め、聖礼典(洗礼、聖餐等)」、「教説・原理・体系としての恵み」、「罪の義認」、「〔人間が〕自分自身で手に入れた恵み」、「〔真の〕悔い改め抜きの赦しの宣言」等々であり、「安価な恵みは、〔信仰の〕服従〔すなわち信従〕をぬきにした恵み・十字架をぬきにした恵みであり、生ける・人となったイエス=キリストをぬきにした恵みである」(村上伸『ボンヘッファー』清水書院、1991年、p58)

 

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【3月3日】キリスト中心の宇宙(愛-宇宙を支える根源の能力)

万物は〔神の〕御子〔キリスト〕によって、御子のために造られました。

御子はすべてのものよりも先におられ、すべてのものは御子によって支えられ〔存立し〕ています。(コロサイ書 1・16~17)

 

この聖句によれば、この宇宙は〕キリスト中心の宇宙である、という。〔つまり、〕ナザレのイエスは宇宙の中心偉力の顕現(けんげん)である、という。


愛は宇宙を動かし、これを支える〔根源の〕能力(ちから)である。 そしてイエスの愛は、人が考え得る最高、最深、至聖(しせい)の愛である。

それゆえ、「〔宇宙の〕万物は御子〔イエス〕にあって存立している」というのは、決して不合理〔なこと〕ではない。


昴宿ぼうしゅく 注1の鎖を結び、参宿しんしゅく 注2のつなぎを解く能力は、これをその根源において探れば、イエスに現れたこの愛であることが判明するであろう。

 

こうしてわれわれは、神の啓示の下(もと)に執筆したこの〔聖書〕記者の、この驚くべき言葉を、教会の教義(ドグマ)としてではなく、厳正な哲学的真理として受け容(い)れることができる。

 

わが救い主であるイエスが宇宙の中心偉力である、という。

こうして、まことに無限大そのもの〔であるイエスの愛〕が、わが小さき心に集中して、そこ(心)にその姿を映(うつ)すのである。(原著「イエスと宇宙」 信10・65)

 

注1 昴宿(ぼうしゅく)

プレアデス星団のこと

 

注2 参宿(しんしゅく)

オリオン座のこと

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【3月4日】わが平和と歓喜は(キリストと十字架)

生きているのは、もはやわたしではありません。キリストがわたしの内に生きておられるのです。

わたしが今、肉〔体〕において生きているのは、わたしを愛し、わたしのために身を献げられた神の子〔キリスト〕に対する信仰によるものです。(ガラテヤ書2・20)

 

わが平和と歓喜は、事業の成功になく、知識の進歩になく、良心の満足になく、キリストと彼の十字架にある。

 

キリストを待望し、十字架を仰ぎ見るとき、わたしに、人のすべて思いを超えた平和と歓喜があるのである。

 

それゆえ、〕わたしを事業家と考える人、思想家と見なす人、道徳家として扱う人は、わたしの存在の根底であるわが贖い主(あがないぬし)を知らない者である。(信8・296)

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【3月5日】ヤハヴェは生ける神(救いの待望、信徒の平安)

あなたの道を主(ヤハヴェ)にゆだねよ。
主に信頼せよ、主はそれをなしとげ、
あなたの義を光のように明らかにし、
あなたの正しいことを真昼のように明らかにされる。
主の前に黙
(もだ)し、耐え忍びて主を待ち望め。(詩編 37:5~7 口語訳)

 

ヤハヴェは生ける神〔であって〕、彼はただ黙って万事を成り行きに任(まか)せることはされず、あなたに代わって、あなたが為(な)したいと願うことを成し遂(と)げてくださるであろう。


確かに、〕神は自己(おのれ)を助ける者(自助努力をする者)を助けてくださる、というのも真理である。しかし、神は自己を神に委(ゆだ)ねる者を救ってくださるというのは、さらに大きな真理である。

 

信仰は、怠慢〔を意味するの〕ではない。

信仰は、〕己(おの)れの道を神にお委ねして、その遂行を待ち望むことである。これに不断の祈りが必要である。〔そして、〕警戒を怠(おこた)ってはいけない。〔油断してはいけない。〕

 

生ける神が主催される宇宙・人生であるから、〔われわれは〕神の御心(みこころ)が必ず成就(じょうじゅ)することを信じなければならない。

そして、このように信じ、このように〔神に委ね、そして不断の祈りと努力を〕行う時、われわれが為したいと願っていることを神が成し遂げてくださるのは、確実である。


神は〔必ずや、〕これを成し遂げてくださるであろう

信徒の平安は、この一言にある。信徒が信じて待ち望むとき、成就(じょうじゅ)しないことは〔何一つ〕ないのである。(注5・84)

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