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<預言の声

近代の預言 014

2019年9月19日改訂

矢内原忠雄

 

時勢の動きと預言者の声

 

時勢の動きと預言者の声  ①  

3

〔3-①〕
ある時、イエスが群衆に向かって、

 

 偽善者よ、このように空や地の模様を見分けることは知っているのに、どうして今の時を見分けることを知らないのか。(ルカ福音書 12:56)

 

〔と言われた。

 

この時、イエスは人々に対し、君たちは〕気象通報、天気予報はできるのに、どうして時の徴(しるし)を見分けることができないのか、と誡(いまし)めたのです。

 

〔3-②〕
私どもは今日の日本の《時の徴》を、どのように見分けることができるだろうか。

 

戦後、あたかも神の霊感(インスピレーション)のごとくに〔、核時代における世界平和への道として〕日本に示された〔、日本国憲法の〕《平和主義》の影が今や、薄れつつある。

また、天与(てんよ)の〕人間の自由〔と人権〕を尊ぶ観念が揺(ゆら)ぎつつある。

 

今後、〕キリスト教は、〔非戦・平和と人権を擁護(ようご)するものとして、国民の間で〕だんだん評判が悪くなるだろう。我々は今日の日本の空に、そのような徴を見るのです。

 

〔3-③〕
日本のキリスト教の歴史を別の角度から見ますと、1981〔明治24〕年1月の内村鑑三の《第一高等学校不敬事件 注1》以来、1945〔昭和20〕年の8月15日〔のアジア・太平洋敗戦の日〕まで、日本のキリスト教は〔、天皇を現人神
(あらひとがみ)とし、日本を神国とする〕《国家主義》の大きな弾圧のもとに晒(さら)され、その伝道は伸び悩んでいました。

 

真実にキリストを信ずる者は警察に尾行(びこう)され、取調べを受け、特高警察の監視の対象とされたのです。

 

それが戦争の終った時に急に解放されて、我々は非常に伸び伸びと、明るく感じたのでした。

そして、〕キリスト教は、伝道をするにも信仰するにも、かつて我々の先輩が経験しなかったような自由を楽しみました。

 

世間から、キリスト教は〔戦時中は《敵性宗教》と教えられていたが、本当は〕悪いものでない、いや、善いものだと言われるような風潮になったのです。

 

〔3-④〕
その時、私は思いました。

我々はこの機会を逃(のが)さず、日本国民の間にイエス・キリストの福音を、できるだけ広くまた深く教えなければならない〔、と〕。

 

国際的にも国内的にも、世の中の状況、政治情勢あるいは経済情勢は移り変ってゆくものです。

 

そして、歴史を見れば誰でも分かることですが、国際関係も、決して同じ状態が永久的に続くものではない。

日米関係、日英関係、日露あるいは日ソ〔、日ロ〕関係も同様であって、〔国際情勢は、〕昨日の味方は今日の敵、今日の敵は明日の仲間〔と移り変わるものです〕。

実に、〕移り変ってゆくものは、国際情勢です。国内情勢も同様です。

 

〔3-⑤〕
そのような中にあって私どもは、永遠に変らないキリストの真理を、国民の間に自ら堅
(かた)く保ち、また時を得(え
ても得なくても、〔同胞に〕宣(の)べ伝えてゆかなければならない

 

ことに時を得た時、すなわちキリスト教の伝道と信仰が自由になった時は、貴重な機会ですから、我々はこの機会を逃さずに、できるだけ努力して、日本国民の間にキリストの信仰を堅(かた)く植えつけ、広く弘(ひろ)めなければならない。

 

私自身、心に期するところがあって、及(およ)ばずながら、そのために努力して来ました。

 

〔3-⑥〕
しかしながら、もはや、そういう自由な空気の時代は過ぎ去りつつあるようです。

もしもキリスト教と〔神の〕平和(シャーローム)が同じであるならば(注2)、日本におけるキリスト教の評判はこれから悪くなるはずです。

 

キリスト教自身が〔自己保身を優先し、〕この世の勢〔力〕に迎合(げいごう)、追随して、長いものに巻かれてゆくならば話は別ですが、〔譲ることのできない、神にある〕正義と平和がキリストの福音の本質であるとするならば、今後、日本においてキリスト教を信じあるいは伝道する者にとり、ふたたび迫害に耐える覚悟が必要となるに違いありません。

 

〔3-⑦〕
その《時の徴》をいくつか列挙するならば、第一は、日本再軍備の問題〔です〕。

MSA協定の成立を見るとき、日本の再軍備はもはや否定することのできない国の方向となったのであります(注3)

 

鹿を馬と言い、白馬は馬でないと言った昔の中国の詭弁(きべん)を思い出しますが、〔私が〕最も心外に思うことは、〔為政者たちが〕「戦力はいけないけれども軍〔事〕力はよい」とか、「軍と言っても救世軍は戦力を持たない」とか、「軍と言わないで隊と言えばよいだろう。保安軍はいけないが保安隊ならよいだろう」などという詭弁を弄(ろう)している〔ことであります〕。

 

そのような、誰にでも嘘(うそ)と分かることが政治家たちによって公然、唱(とな)えられていることは、世の中が〔平和から戦争に向かって〕移りゆきつつあることの明白な時の徴です。

 

〔3-⑧〕
さらに近頃、毎日のように新聞雑誌に出る〔政治家の〕汚職事件もまた、明白な時の徴の一つです。

 

政治家たちは〕デモクラシーの、民主主義の、と言っていますが、真にキリストを信ずる信仰によって養われた個人の尊厳〔の意識〕、すなわち個人の人格の重さとそれに伴う責任をわきまえずに、形の上だけ、制度の上だけで作り上げた民主主義は、汚職になるに決まっている。

 

それは、国会議員は選挙によって当選するからであって、〔彼らは〕票を自分に集める必要があります。それにはお金が必要だというので、政治家は金銭を欲しがることになる。

 

一方、実業家は、自分たちの事業に利益を得ようとして、政治〔家〕を利用する。そのために政治資金を出す。

 

現在の日本は、〕キリスト教信仰によって補強された人間の権利と責任〔の観念〕が全く分からずに、形の上だけ民主主義を唱(とな)えれば、当然、汚職事件が起るような組織と制度になっている〔のです〕。

 

戦後10年、民主主義の本当の精神が日本国民に分からないままに、早くもデモクラシー(民主主義)は破綻(はたん)を来しつつあるのです。

これも現代の《時の徴》の一つです。

 

〔3-⑨〕
また、〕教育二法案というものがある(注4)

 

〕ここで、教育二法の内容を説明する必要はありませんが、日本の教育者と学者があれほど一致して反対したことを国会議員が法律にするということは、実に奇々怪々な、理解しがたい事柄(ことがら)です。

 

もしも経済界のことを、実業家や個人の経験や知識や要求を無視して、その要求に反する経済の法律を作るならば、それがいかに無謀(むぼう)な、乱暴な立法であるかは誰でも分かるでしょう。教育においても、同じです。

 

真理の声、正しい声を重んじなくなり、権力者の〔都合良い〕意思を強行すること。これも、一つの《時の徴》です。


その他、我々はいろいろな所に現代の《時の徴》を見ることができる。

西の方が夕焼すれば明日は晴れになるだろう、北の方に雲があれば明日は北風が吹くだろう、ということが判断できるように、今述べたようないくつかの時の徴を見て、我々は、日本の民主主義と平和主義は影が薄れつつあることを知るのです。見抜くのです。

 

〔3-⑩〕
たとえばイザヤとかエレミヤとかアモスのような預言者、あるいは預言者としての内村鑑三が、このような状態を見るならば、〔何と言うか。

 

おそらく彼らは、〕「天よ聞け、地よ耳を傾けよ。語り伝えられたキリストの言葉があるにもかかわらず、わが国民は背きを重ねて、またも〔神に〕打たれようとするのか

君たちは〕頭の頂から足の裏まで、ことごとく汚(けが)れと腐敗と腫れ物ばかりである君たちが悔い改めてヤハヴェ〔の神〕を信ずるのでなければ、ふたたび滅亡が君たちを襲い、〔君たちはそれを〕避けることはできない」と叫ぶでしょう(注5)

 

4

〔4-①〕
このように考えると、日本を救う道、ひいては世界人類を救う道、真理を保ちこれを維持する道は、狭き道である。〔それは
〕細い道であり、苦しみと悲しみの道であることを知るのです(注5)

 

結局、キリスト教の本質がそこにあることを、我々は再確認する〔のです〕。

 

〔4-②〕
すでに戦後10年近くになります。

その間、我々は〔人々にキリストの福音を信じるように〕訴えたけれども、天皇もキリストを信ぜず、政治家、青年・学生、そして国民もキリストを信じません。

 

このことから、〕真に日本(Japan)を愛した〔キリスト信徒・〕内村鑑三の道は、やはり細い道であり、苦難と迫害を避けられない道であることを〔我々は〕知るのです。

 

しかし、これは〔始めから〕聖書に教えられている事柄であって、〔預言者〕エリヤが神に訴えて、国民はヤハヴェの預言者たちを殺して私一人だけが残っておりますが、〔彼らは〕その私をさえも殺そうとしています、と言って嘆(なげ)いた。

ところがヤハヴェが「いや、〔偶像神〕バアルに膝を屈しない者7,000人が残されている」と答えた、という記事があります〔列王記上19:14~18〕

 

いつの時代にも、〕真に〔神と〕キリストを信ずる者は、常に少数であります。それは多数であることはできないし、また多数の必要もない、と思います。

しかし、〔神ヤハヴェがエリヤに語ったように、〕バアルに膝を屈しない者7,000人が残されているということは、私どもの希望であります。

 

〔4-③〕
この7,000人は団結の力により、一つの政党もしくは団体〔つまり人間的な勢力〕を作るのではない。

 

そうではなくて、〕7,000人の各々が〔キリストに信従し〕、ただ一人で十字架の上に死ぬ〔のである〕。〔神の〕真理のため、正義のため、平和のために節操を屈せずに、一人ずつが十字架の上に死ぬ。

 

そのような者が〔民の中に〕7,000人残されている、ということであります。

 

〔4-④〕
もとより、〕我々は無力で愚かな者、罪と過
(あやま)ちの多い者であります。

しかし、キリストがご自身のものとして要求する者は、決して有力な人、有徳な人ではありません

 

ただ自分の罪と弱さを知ってキリストに依り頼み、神の〔一方的な〕恩恵によって救われることを信ずる者、すなわちキリストの十字架〔による罪の贖(あがな)い〕を信ずる者、その結果、キリストに属する者としてキリストの名を恥(はじ)としない人間、それがキリストの信徒であります。

 

そしてありがたいことに、内村鑑三の時以来、このような人々が絶えず、途切れることなく今日に至っております。

 

そうして今後も、諸君自身が次から次へとキリストの十字架の御旗(みはた)を掲(かか)げて、この真理の戦闘(たたかい)を受けついでいって下さるだろうと私は信じ、また期待しているのであります。

 

それが、わが〔信仰の〕恩師内村鑑三先生を記念する日を迎えて、私が皆さまに訴え、先生を記念する言葉としたい内容でございます。

 

おわり

 

♢ ♢ ♢ ♢

 (『嘉信』第17巻第4号、第6号、1954〔昭和29〕年4月、6月、一部表現を変更、( )、〔 〕内は補足。下線は引用者による) 

 

注1 教育勅語と内村鑑三不敬事件

内村鑑三不敬(ふけい)事件とは、1891(明治24)年1月9日、第一高等中学校(東京大学予備門の後身)で教育勅語(ちょくご)の奉戴(ほうたい)式が行われた際に、同校の教師であった内村鑑三が、勅語への拝礼を拒んだために非難を受け、同校を追われた事件。

1889(明治22)年2月11日に大日本帝国憲法が公布されたのに続き、翌1890(明治23)年10月30日に教育に関する勅語(教育勅語)が発せられた。

教育勅語は、いわば大日本帝国の聖典であり、国民道徳の規範とされた。

教育勅語は、儒教的な家族主義の道徳と国家主義に基づく愛国の理念とを基礎に、「忠君(ちゅうくん)愛国 *1」「忠孝一致 *2」を教育の基本として強調している。これによって、天皇は単なる政治的主権者であるばかりでなく、国民の道徳的・思想的中心とされた。

教育勅語は、全国の学校でその奉戴式(奉読)が極めて厳粛に執り行われることによって大きな効果を発揮し、広く国民に国体観念を植え付けることとなり、《現人神(あらひとがみ)天皇》を中心とする国家体制(国体)を内面から支える役割を果たした。

太平洋戦争敗戦後の1948〔昭和23〕年6月、国会において正式に失効宣言がなされた。

1890(明治23)年12月25日、一高(いちこう)には特別に明治天皇の署名入りの教育勅語が授与された。

1891(明治24)年1月9日、一高では新年の授業開始にあたり、教育勅語の奉戴式が行われ、勅語に記された明治天皇の署名に対し「奉拝」をすることが求められた。

内村は、宗教的礼拝に相当する程には、深く頭を下げなかった。

その行動を非難する声は、まず一高内部の生徒、教員らからあがった。

内村には、宗教的な礼拝に当たる「奉拝」は、その信仰するキリスト教の神以外には決して捧げるべきものではなかった。

地上に存在するものは、たとえ天皇でも、それに宗教的礼拝を捧げることは、それを絶対視することになる。人間を絶対視することは、宗教的良心が許さなかったのである。

ここには、まことの神以外のものを礼拝することを拒否するキリスト者としての良心と、国家主義道徳との対決があった。

その後、1893年、東京帝国大学教授であった井上哲次郎が『教育と宗教の衝突』を刊行し、キリスト教の非国家主義、博愛主義は、日本の国体の国家主義、現世主義、忠孝の精神に反すると攻撃した。

本事件は、内村個人のみならず日本近代の歴史から見ても、はなはだ大きな意味を持つ。

大日本帝国憲法において「神聖侵(おか)すべからず」とされた現人神・天皇に対して、一個人が現世を越える普遍的価値を根拠に、その神聖不可侵性を否定する行動を取ったのである。

 

そのため、内村は学校を追われることになったが、人間を絶対視し、不可侵的存在とすることに「否(ノー)!」のありうることを世に示した。

 

内村は、この世的な地上のものを、すべて相対化する(絶対化しない=事実に即して、限界や問題、危険性を直視する *3)思想のあることを顕(あらわ)したのである。

(参考文献:佐藤信編 改訂版『詳説 日本史研究』山川出版社、2008年、394項、鈴木範久『内村鑑三』岩波書店、1984年、51~62項、用語集『倫理』清水書院、2016年、157、160項)

*1 忠君愛国

忠君:天皇に真心をもって尽くすこと。愛国:国を愛すること。

*2 忠孝一致

忠孝:天皇に対する道徳(忠義)と親に対する道徳(孝行)。

日本は天皇を中心とする、血のつながった一大家族である(家族国家論)から天皇に忠義を尽くすことが、同時に家長への孝行となるとして、このように忠孝が一致することが、他の国をしのぐ日本の道徳性の証拠とされた

『教育勅語』において強調された。

*3 腐敗の根本:偶像崇拝(Idolatry)

内村の晩年67歳の時、すなわち1928(昭和3)年11月10日に京都で昭和天皇・裕仁(ひろひと)の即位式があった。

 

日本中が「ご大典」「ご大典」と大騒ぎして、数週間前から連日の新聞は大きな活字でそのことばかりを書いた。

その頃内村は、愛(まな)弟子・石原兵永に次のように語った。

君、日本がこんなに腐って行き、教育も政治も、どうすることもできないようになる、その根本のわけは何だと思う? 

 

それは他にもいろいろ理由はあるかも知らんが、おもにこれだよ。人間を神様として祭(まつ)からだ。そして神様としてこれを人に拝(おが)ませるからだよ。

Idolatry(偶像崇拝)とは実に恐ろしいものだよ。ここに偽善の根本があるのだ。」

また別の日、内村は言った。「君、日本はあと50年で滅びるよ。こんな無責任の国はだめだ。・・・」

(石原兵永『身近に接した内村鑑三 下』山本書店、1972年、198、199項)

注2 イエスの《平和の福音》

平和をつくり出す人たちは、幸(さいわ)いである、

  彼らは神の子と呼ばれるであろう。」(マタイ福音書 5:9 口語訳)

 

「イエスは言われた。『剣をさやに納めなさい。剣を取る者は皆、剣で滅びる』」(マタイ福音書 26:52)

 

本の紹介007宮田光雄〖山上の説教から憲法九条へ〗

 

注3 MSA協定
アメリカと自由主義諸国との間で締結された安全保障協定で、相互防衛援助協定(MDA協定)農産物購入協定、経済措置協定、投資保障協定の総称。

いずれもアメリカの相互安全保障法(MSA)を根拠としているので、このように呼ばれている。

 

1954年3月に締結され、日本はアメリカの援助で兵器や農産物などの提供を受ける代わりに、自衛力の増強を義務づけられ、同年7月に防衛庁を新設し、その統括の元に保安隊と警備隊を統合して、陸海空の自衛隊を発足させた

 

(参考文献:『山川 日本戦後史』山川出版社、2016年、「独立回復後の逆コース」、67項より引用)

 

注4 教育二法(にほう)
1954〔昭和29〕年に公布され、公立学校教員の政治活動と政治教育が禁止された。

 

(参考文献:同上『山川 日本戦後史』、「独立回復後の逆コース」、68項より引用)

 

注5 大正・昭和のエレミヤ-藤井武の叫び

近代の預言006藤井武〖亡びよ〗

 

注6 命に至る《狭き門》、《細い道》

狭い門から入りなさい。滅びに通じる門は広く、その道も広々として、そこから入る者が多い。

しかし、命に通じる門はなんと狭く、その道も細いことか。それを見出す者は少ない。」(マタイ福音書 7:13)

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