― まごころで聖書を読む。そして、混迷の時代を神への信頼と希望をもって、力強く前進する ―
We read the Bible with all our hearts. And we move forward powerfully in this era of turmoil with trust and hope in God.
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最終更新日:2024年10月9日
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はしがき
これは1954〔昭和29〕年3月28日、東京の女子学院講堂でなされた内村鑑三記念講演会の講演速記です。
私の前に政池仁、石原兵永両氏の講演がありました。聴衆は約900人でした。
1
〔1-①〕
だいぶ時刻も移りましたし、皆さんは政池君と石原君の十分なご馳走をお食べになったので、きっと御満腹〔のこと〕と思う。
私〔の話〕はお茶づけを一杯さし上げるという程度でございます。
私の気持は詩篇の、ある詩にあるように、
わが心はよきことばにあふれ、
わが想念(おもい)は王のためのわが歌を述べよう。
わが舌は速(すみ)やかに物書く人の筆である。(詩篇45篇1節。関根正雄訳)
「速やかに物書く人」は速記者のことであって、速記者のペンのように速いというのです。
私は私の先生、内村鑑三のことを思い、また内村鑑三を我々に与えてくださった神の恵みを思いまして、心は喜びに満ち溢(あふ)れている(注1)。楽しくて、嬉(うれ)しくてしようがない、という次第(しだい)であります。
ことに私どもの学生の時から内村先生に共に学んだ方々の多くの顔を、皆さんの中に見ることができる。今も互いに元気で、健在で、先生の記念会に集(つど)って、先生の愛されたイエス(Jesus ジーザス)と日本(Japan ジャパン:注2)〔、二つのJ:注3〕のために志(こころざし)をともにしている。
我々のうち多くの人々は、すでに天に昇りました。
けれども長年、世の風波にもまれながらも信仰を保って、あるいは〔神様に〕保っていただいて、今日ここに互いに顔を合わせるということは、言いようのない喜びです。
また私どもよりも年の若い諸君がたくさんここに集って来られて〔いて〕、私どもの志をたぶん受け継いでいってくれるだろう。
私どももやがて数年の中には、この世を去って天に召されると思いますけれども、このあと何年も何年も、日本の国に播(ま)かれた福音の種が育って、いつまでもいつまでも、イエスの福音が語りつがれ聞きつがれてゆくだろうと思って、私は大へん嬉しいのです。
〔1-②〕
内村鑑三先生は1930〔昭和5〕年の今月今日〔3月28日〕に召されたのですが、先生の伝道の歴史をごく簡単に言いますと、明治30年代の始めから大正6、7年〔1917、18年〕の頃、第一次大戦の終りまでは、先生は極めて閉鎖的な形で集会をもたれ、多くの人を集めないで、ごく少数の人にだけ聖書を説いておられました。
ところが第一次世界大戦によって、先生は大きな刺戟(しげき)をお受けになりました。
それで始めは神田の美土代町のYMCAの講堂において1年ほど、次いで大手町の私立衛生会の講堂において聖書講義をされるようになって、全国から数百の聴衆が集(つど)ったのです。
その衛生会の講堂が1923〔大正12〕年の〔関東大〕震災で破壊されて、先生は柏木の今井館にお帰りになって、再び200人か300人かの限られた者に講義をされました。
〔その後、 〕やがてまた市中に出られて、神宮外苑の日本青年館で大きな集会をされました(注3)。
それもしばらく〔の間〕で、また柏木に帰られて、ついに眠られたのでありますが、その日本青年館〔で〕の〔聖書〕講義の題目がイザヤ書でした。私は今でもその当時の事をはっきりと思い出し、また印象が深いのです。
〔1-③〕
イザヤ書の講義の最初に、第1章2節の、「天よ、聞け、地よ、耳を傾けよ。まことにヤハヴェが言われる、」というところを、内村先生は、天と地を陪審(ばいしん)員に呼び出して神の法廷が開かれている、預言者イザヤは天に訴え、地に訴え天地を陪審としてイスラエルの罪を告発している。
わたしは子らを育てて大きくした、
しかし、彼らはわたしに背(そむ)いた!〔イザヤ書1章2節〕。
こう言って、獅子吼(ししこう)されたのであります。
内村先生の講演のジェスチャーは大へん大きく、こういうジェスチャーをして、意気軒昂(けんこう)で、ある時には足で床(ゆか)を蹴(け)られる。
牛はその主(あるじ)を知り、
驢馬(ろば)は主人の馬槽(まぶね)を知る。
しかしイスラエルは知らず、
わが民は悟らない〔同3節〕。
こう言って床をお蹴りになった。その音が今も私の耳に残っている。
平和を知らせ、救いを告げ、救いを知らせる喜びの使者の足は、
山々の上になんと美(うる)わしいことか(イザヤ書52章7節)。
という言葉があるが、〔平和の〕善き言葉を告げた先生が床を蹴られた音も、またなんと快(こころよ)いことか、であります。
〔1-④〕
〔私どもの〕先生、内村鑑三先生を日本に遣(つか)わされた神の御意(みこころ)、神の恩恵は、ほんとうに汲(く)めども尽きないものがありまして、先生の講演のあるものの内容は実に厳しいものでしたけれども、今になって私どもは、その厳しいお言葉さえも、愛の甘露(かんろ)に潤(うるお)っていることを知るのです。すなわち、神の真理に潤っていることを知るのです。
2
〔2-①〕
日本のキリスト教史における内村鑑三の地位については、多くの人がたびたび、研究もし説明もしていますから、今日〔は〕それを繰り返す必要はありませんが、〔私は〕三つの特色が先生の活動にあったと思う。
第一は、預言者(よげんしゃ)としての内村鑑三。
預言者とは、今のイザヤ〔の言葉〕でも分かりますが、時勢の動きを見て、それに対する神の審(さば)きを告げる者です。
神の審きは、高ぶる者を挫(くじ)き、神に依(よ)り頼む者を助ける。
それが神の審きの内容であって、これをただ観念的に考えるのでなく、実際に生きた時勢の動きを見て、神の御意(みこころ)に反する点を〔具体的に〕指摘し、神の御意に従わなければ必ず破滅が来る、しかし神に依り頼むならば滅亡を免(まぬが)れて救われる、ということを告げる。
これが預言者であって、内村鑑三はその役目を立派に十分に果たされた。
内村鑑三の生涯の初期の活動、『東京独立雑誌』の時代から晩年に至るまで、内村先生は世の中の実際の動きを鋭く見抜いて、〔国民に向かって〕神の言(ことば)を恐れるところなく宣(の)べ〔伝え〕たのです。
たとえばイザヤ書第1章の講義でも、それから後の日本の国の進んだ実際の道行き、ついに第二次〔世界〕大戦〔に至り、そこ〕における日本の国の行動、その後訪れた〔日本国の〕破滅を内村鑑三は〔、当時〕すでに見抜いておられた。
〔神〕ヤハヴェ〔の御心〕に逆(さか)らうならば必ず破滅するということを、〔先生が〕鋭く指摘しておられたことを〔我々は〕知るのであります。
〔2-②〕
第二に、聖書の研究者〔としての内村鑑三〕。
先生が『聖書之(の)研究』という雑誌を出した時、聖書は信すべきものであって研究すべきものではない、聖書の研究という言葉それ自身が不信仰であり冒涜(ぼうとく)的であるという批判があったそうです。
そういう中にあって、内村鑑三先生は早くから聖書の研究が重要であることを知っておられ、ご自分の雑誌の名前まで『聖書之研究』と付けた。
これは我々にとって全く画期的(かっきてき)な道を開いてくださったのであって、いわゆる善男(ぜんなん)善女的に〔わけも分からず〕、ただ「ありがたい、ありがたい」という教えでは、とうていキリストの真理〔の深さ、広さ〕を知ることはできない。
〔聖書は、教会や聖職者・教職の専有物ではない。聖書は、神の救いの歴史を記録し、証言するものとして、また神の子イエス・キリストを入れている器(うつわ)として、万人(ばんにん)のための神の言葉であります。〕
〔自ら〕聖書を〔深く〕学ばずに、聖書を抜きにして、ただ牧師の話を聞いて〔鵜呑みに〕信ずるということは、私どもを本当に神の子として救う道で〔は〕ない。
しかも〔、実際に〕聖書を学ぼうと思いますと、なかなか難しいのであって、〔聖書の〕あちこちに分からない言葉や記事があり、〔また各文書の〕思想について矛盾さえも感じられる〔のです〕。
ですから、聖書を学問的に、しかも信仰的に〔深く〕研究するということは、非常に大切なことです。
ただ聖書〔の文字〕を〔絶対化し、訳も分からず〕鵜(う)呑(の)みに信ずるという〔原理主義的な〕態度は、聖書の真理を知る所以(ゆえん)でもないし、そうかと言って信仰を抜きにして〔、ただ〕批判的に聖書を分析するということも、真理を知る道ではありません。
内村鑑三先生は、その堅(かた)い信仰をもって、しかも研究的に聖書を学ぶ態度と方法を私どもに教えて下さった。
聖書の研究ということを日本に紹介し、その正しい道を開かれた〔先生の〕功績は、実に大きいものがあるのであります。
〔2-③〕
第三に、福音(ふくいん)の使徒(しと)〔としての内村鑑三〕。
〔内村〕先生はキリストの救いの福音を固く信じ、また私どもに伝えたのです。
内村先生の信じたキリストの福音の中心は、十字架による罪のあがないです。
もちろんそれだけでありませんが、私の見るところによると、内村鑑三の心臓に一番強く流れていた血潮は、十字架の上でキリストが流されたその血潮であったと思うのです。
私どもと同じく内村先生の講筵(こうえん)に列した者、例えば石原君でも政池君でも確かに記憶していると思いますが、先生は〔天に〕召される一年前ぐらいから病気が悪くなって、自ら講義ができない時、〔講〕壇に上って始めの祈りだけをされたことがあります。
その祈りは、あの体の大きな、かつ魂(たましい)の偉大な先生が、まったく手放しで泣くような、否(いな)、実際に泣いて、己(おの)れの罪の赦しをキリストの御名(みな)によって神に祈り求めたのであります。
内村鑑三70年の生涯を貫いて彼を支えたものは、〔実に〕十字架による罪のあがないの信仰であった。
それを先生は私どもに教えて下さった。
いかに〔罪にまみれた〕弱き者でも、いかにみじめな者でも、〔救い主イエス・〕キリストを信ずるその信仰だけで救われる。何の功績(こうせき)も〔、特別の宗教儀式(注4)も〕必要ない〔のだ〕ということ〔、この純福音 注5〕を、堅く堅く〔、私どもに〕教えていってくれたのです。
預言者として、また聖書の研究者として、福音の使徒としての内村鑑三先生を、私は限りなき感謝と尊敬と懐(なつか)しさで思い出すのです。
つづく
♢ ♢ ♢ ♢
(『嘉信』第17巻第4号、第6号、1954〔昭和29〕年4月、6月、一部表現を変更、( )、〔 〕内は補足。下線は引用者による)
注2 内村の日本(Japan)への愛、パウロのイスラエルへの愛
内村の日本への深き愛は、パウロのイスラエルへの愛と同様、イエス・キリスト(Jesus)の愛によって育(はぐく)まれ、強められた。
「わたし〔パウロ〕はキリストに結ばれた者として真実を語り、偽(いつわ)りは言わない。
わたしの良心も聖霊によって証ししていることですが、わたしには深い悲しみがあり、わたしの心には絶え間ない痛みがあります。
〔キリストにある愛によってイスラエルを思う時、〕わたし自身、兄弟たち、つまり肉による同胞〔イスラエル人〕のためにならば、キリストから離され、神から見捨てられた者となっても良いとさえ思っています。
彼らはイスラエルの民です。神の子としての身分、栄光、契約、律法、礼拝、約束〔、つまり救いの恵み〕は彼らのものです。」(ローマ書 9:1~4 ( )、〔 〕内は補足)
注3 二つのJ
内村鑑三がその生涯を捧げようと誓ったイエス(Jesus)と日本(Japan)のこと。
内村にとって《二つのJ》は矛盾するものではなかった。
彼はイエス・キリストの《福音》を同胞に宣(の)べ伝えることによって、近代化の中で混迷(こんめい)する日本人の精神的新生を図(はか)ろうとした。
愛する日本を《神の義》にかなう国(、つまり神にある理想の日本国)にすることこそ、内村の生涯を賭(か)けた使命であった。(参考文献:『倫理用語集』山川出版社、2014年、160項)
注4 洗礼・聖餐の起源と福音
注5 純福音