― まごころで聖書を読む。そして、混迷の時代を神への信頼と希望をもって、力強く前進する ―
We read the Bible with all our hearts. And we move forward powerfully in this era of turmoil with trust and hope in God.
■上の「ネットエクレシア信州」タッチでホーム画面へ移動
Move to home screen by touching “NET EKKLESIA” above.
最終更新日:2024年8月29日
■サイト利用法はホーム下部に記載
12月<内村鑑三「一日一生」現代語訳
12月26日~12月31日
(2017年 1月 3日更新)
このページは、山本泰次郎、武藤陽一編『続 一日一生』(教文館、1964年)を現代語化したものです。
【12月26日】貧しいということは、(貧しき者の祝福)
そのとき、イエスは目をあげ、弟子たちを見て言われた、
「あなたがた貧しい人たちは、幸(さいわ)いだ。神の国はあなたがたのもの〔だから〕である」。
(ルカ 6:20 口語訳)
■貧〔しいということ〕は、〔すなわち〕緊張の生涯で〔あることを意味しま〕す〔。目に見える明日の保証が無いからです〕。
そして、緊張のなかで〔、神に対する〕信仰も起こり、〔真(まこと)の〕愛も希望も生まれます。
貧しさは、ことに主イエスの地上の生涯〔の性格〕でありました。
〔それゆえ、〕私たちは貧しさの中にあって、主を最も深く知ることができるのです(注1)。
「主〔イエス〕は〔、神の独り子として〕富んでおられたのに、あなたがたのために〔限りなく〕貧しくなられた。
それは、あなたがたが、彼の貧しさによって〔真に〕富む者になるためである」(コリント第二 8:9 口語訳)とあります(注2)。
イエスと共に〔生きる者と〕なれたことだけが、〔生涯〕最大の富〔であり、幸福〕なのです〔。
イエスによって、私たちは《神の国》の民とされたからです。注3〕。
キリスト信徒は、これ以上の富を要求しません。
(注9・112)
§ § § §
注1
内村は生涯に三度、餓死を覚悟した、という。
注2
注3
♢ ♢ ♢ ♢
【12月27日】
♢ ♢ ♢ ♢
【12月28日】赦すことができるように
「人を裁くな。そうすれば、あなたがたも裁かれることがない。
人を罪人だと決めるな。そうすれば、あなたがたも罪人だと決められることがない。
赦しなさい。そうすれば、あなたがたも赦される。(ルカ 6:37)
■赦すことができるよう〔になるため〕に、祈るべきである。また、祈って〔、人を〕赦すべきである。
敵を赦す最も善い方法は、敵のために祈ることにある。
イエスは、「あなたの敵を愛し、自分を迫害する者のために祈りなさい」〔マタイ 5:43〕と教えて、われらに人を赦す最も善い道を教えてくださったのである。
私が自分の敵のために祈るとき、私が敵に対して抱く無慈悲(むじひ)と憤(いきどお)りは除かれ、これに代わって春風駘蕩(たいとう、注1) 、仇恨(うらみ)の堅(かた)い氷を解かすのに十分な温雅(おんが、注2)が、わが心に臨(のぞ)むのである。
仇恨の苦(にが)き〔思い〕を〔心に〕抱いて、長く不快を感じる必要は無い。
ただちに祈りの座に近づき、自分が最も憎いと思う人のために祝福(さいわい)を祈り、完全に彼を赦して、自分もまた完全な幸福にあずかるべきである。
年はまさに暮れようとしている。われらの心のうちに、一人の敵をも残すべきではない。
私たちは、キリスト者として罪を赦す能力(ちから)を神からいただき、また自分に負債(おいめ)のある者の負債を赦し、神に赦され人を赦して、貸借なしの心の帳簿をもって新年を迎えるべきである。
(信12・101)
注1 春風駘蕩(たいとう)
春の風がやわらかく吹くようす。おだやかな人柄のたとえ。
注2 温雅(おんが)
温和で気品があること。
♢ ♢ ♢ ♢
【12月29日】
♢ ♢ ♢ ♢
【12月30日】キリスト信徒の生涯は(最善な最後)
わたしは、すでに自身を犠牲(いけにえ)として〔神に〕ささげている。
わたしが世を去るべき時はきた。
わたしは〔主イエスの助けにより、〕戦いをりっぱに戦いぬき、走るべき行程を走りつくし、信仰を守りとおした。
今や、義の〔栄〕冠がわたしを待っているばかりである。
かの日には、公平な審判者である主が、それを授けて下さるであろう。
わたしばかりではなく、主の出現を心から待ち望んでいたすべての人にも授けて下さるであろう。(テモテ第二 4:6~8 口語訳)
■〔キリスト〕信徒の生涯は、始めは悪く、終わりは善(よ)い。終わりに近づくほど、ますます善くなる。
生命(いのち)の夕暮れになればなるほど、彼は、自分の心の奥深き所に何ものかが結実しつつあるのを感じる。
人が信徒に「自分の生涯の中で最も愉快だった時は、いつか?」と聞くならば、彼は常に「今」と答えるのである。
そして、彼の最後(ラスト)が最善(ベスト)である。
あたかも年末のクリスマスが、信徒にとって最も喜ばしい期(とき)であるように、彼の生涯の終わりが、彼にとって最も感謝多き時である。
そして、信徒が特に感謝してやまないことは、自分の生涯の計画がことごとく失敗であって、〔しかも、〕自分の計画に反し〔て、人智を遙かに越え〕た神のご計画が自分の身において成就(じょうじゅ)したことである。
「それだから私は、もろもろの弱さと、侮辱と、危機と、迫害と、そして行き詰まりとを、〔主〕キリストのために喜ぶ」(コリント第二 12:10 岩波訳)。
信徒にはこんな感謝があるのである 〔。
恵みの神と憐れみの主に、栄光と讃美あれ!〕。
(原著「最善の最後」1917年、信8・60)
♢ ♢ ♢ ♢
【12月31日】
♢ ♢ ♢ ♢