藤井 武(1922年、34歳)

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びょうしょう かんわ

病床感話

〔1929(昭和4)年12月8日(日曜)朝、聖書集会の感話として病床にて口授したもの-編者

 

すると、天から聞こえたあの声が、ふたたび私に語りかけて言った。

「さあ行って、海と地の上に立っている天使の手にある、開かれた巻物を受け取りなさい」 。


そこで〔私は〕〔その〕天使のところへ行き、「その小さな巻物をください」と言った。


すると、天使は私に言った。

「それを取って〔すべて〕食べなさい。それは、あなたの腹(はら)には苦(にが)いが、口には蜜のように甘い」。

 

そこで私は、その小さな巻物を天使の手から受け取り、すべて食べた。〔果たして〕それは、口には蜜のように甘かったが、食べると腹には苦かった。

(ヨハネ黙示録 10:8~10、聖書協会共同訳)

〔 1 〕

〔1-①〕  
黙示録(もくしろく)著者〕ヨハネは、一人の天の〔御〕使いから小さな巻物を受け取って、食べました。すると口には大変、甘く、お腹(なか)には大変、苦(にが)かった。

 

私もこの度(たび)、神様の〔御〕使いから小さな巻物を戴(いただ)きました。そして、それを食べさせられました。

 

ヨハネの〔受け取った〕巻物は、世界の審判に関する〔壮大な〕ものでしたが、私が戴いたものは、ヨハネのそれとは違って、私一個に関するごく小さなものに過ぎませんでした。

それはすなわち、私の病気でした。

〔1-②〕  
私は、自分の病気が自分の不注意に基(もと)づくことを知っています。

 

そして神様に対して、また私を愛する人に対して、そのほか私と関係ある〔すべての〕人々に対して、誠に申し訳なく感じております。

 

しかしそれにもかかわらず私は、この病気がやはり、神様のお許しなしには起こらなかったと信じます。

(いな)〔むしろ、〕これもまた神様ご自身の聖心(みこころ)による、神様ご自身の御業(みわざ)であると信じます。


一羽の(すずめ)さえ、〔父なる神様の〕聖心(みこころ)によらなければ、地に落ちることはありません〔マタイ 10:29〕。

 

どんな小さなことでも、ことごとく神様の御業であるということは、近年に至り、私が益々、ハッキリと思わされている真理です。

〔1-〕  
私の病気はそれゆえ、神様から戴いた賜物(たまもの)であるとしか考えられません。

 

そして、この病気は偶然にも、お腹(なか)に関するものでしたから、私がそれを食べたときには、お腹は苦かったのです(注1)。

 

それは、ただ肉体の苦痛であったばかりでなく、また、さまざまな意味において私の苦痛でした。

たとえば、その〔療養の〕ために安息日の礼拝に出席できないこと、また尽くさなければならない勤(つと)めを尽くすことができないこと、多くの人に煩(わずら)いをかけることなどはみな、私にとって苦痛以外のものではありません。

 

私がしようとすることが善(よ)きことであり、神様の聖心に適(かな)う〔はずの〕ことであると思えば、なおさら、それを妨げられたことが残念でもあり、不思議でもあります。

 

神様のなさることは、昔も今も変わらず、苦いもので満ちております。

私がもし、〔母親の腕に抱(いだ)かれた幼な子のような〕神様に対する根源的信頼を持っていなければ、このような苦痛も耐えやすいものではなかったに相違(そうい)ありません。

〔 2 〕

〔2-①〕  
しかしながら私にとってもまた、ヨハネと同じように、もう一面の消息(しょうそく)があるのです。

 

ヨハネのお腹に苦かった巻物は、彼の口には大変スイートな(sweet、甘美な)ものでした。ちょうどそのように、私に与えられた辛(つら)い賜物もまた、私には最も甘美なものと感じざるを得ないのです。

 

私に喜びを与えるものは〔数〕多くありますが、何よりも勝(まさ)るものは、神様を知ることです。

神様を知り、その真理に与(あずか)ることが、どれほど恵まれたことであり、かつ自分にとって力強いことかということを、近年、私はしみじみと味わわされました。

 

もし、この一つの経験がなければ、過去数年の間、私はどのような〔暗黒の〕谷底に陥(おちい)っていたか分かりません。神の真理の甘さが、私を救ってくれた唯一の力でした。

 

そして不思議なことに、神の真理の甘さは、いわゆる幸福の中に於(お)けるよりも、むしろ苦痛の中に於いて、一層ハッキリと覚(さと)られるのです〔。

それは、私たちの意表をつく形で示されるからです〕。

2-②〕  
神様の〔為される〕御業が自分にとって辛いとき、それが自分の願いに反し、〔また自分の〕予定〔や計画〕を打ち砕(くだ)き、自分の理解を超越するときに初めて、〔私たちは〕神様がどういう方であるかをハッキリと知ることができるのです。

今度の病気においても私は、また新しくその事を経験しました。

 

ほんの〕偶然なことが原因となって、重大な結果を惹(ひ)き起こすことなど、普通の考えからは、余りに心外(しんがい)なことと思われます。

 

私の今度の病気も、ちょっとした不注意がもとになって、想定外の重病に立ち至ったようです。なぜ神様はそのような意地悪をされるのかとさえ、思われなくはありません。

2-③〕  
しかし私は知っています、神様のなさり方はいつもそうであることを。

 

それが何故(なぜ)なのか、理由は分かりません。しかし、神様が為(な)されたことです。それゆえ、それが一番善(よ)いことであったに相違ありません

 

そして私のような者が、このように理性にも、感情にも、願望にも背(そむ)くような事〔態〕の中にあって〔、それにもかかわらず、〕神様に根源的な信頼と感謝と讃美を捧げることができるということ、そのこと自体が、驚嘆すべき恩恵であるに違いありません。

 

私はこのような心持ちが自分に与えられたというだけで、神を讃美せざるを得ないのです。神様は本当に、讃美すべき方です。

 

人生における〕すべての苦きものが甘くされます。すべての暗きものが明るくされます

 

神様を信じ神様と共にあるという、そのことが、やはり人生の至上(しじょう)善であると思います。

 

私の〔与えられた〕巻物は、苦いと同時に甘いです。それは〔蜜〕蜂の巣の滴(したた)りにも勝る甘さであります。

 

私は今日、一言、このことを〔集会(エクレシア)に集う兄弟姉妹たちに〕ご報告して〔、神様への〕讃美を共にしたいと思います。


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(原著:藤井 武「病床感話」、『藤井武全集 第7巻』岩波書店、1971〔昭和46〕年、55~57項を現代語化。初出:藤井武『新約と旧約』第122号、1930〔昭和5〕年8月。( )、〔 〕内および段落番号は補足。下線は引用者による)

 

1 藤井 武の病気

藤井の病気は、その経過から、今日で言う「難治性再発性の胃・十二指腸潰瘍」であったと考えられる(矢内原忠雄発行『藤井武及夫人の面影』1940年、参照)。

現代医学では、胃・十二指腸潰瘍の主な原因は、胃・十二指腸粘膜へのH・ピロリ菌の持続感染であることが解明されている。

また、H・ピロリ菌の持続感染が胃がんや胃MALTリンパ腫等の発症リスクを高めることも知られている。

・ピロリ菌の感染経路としては、乳幼児期の、母から子への家庭内感染(唾液を介した感染)や生水摂取による感染が大部分と考えられている(大人になってからの日常生活・食生活では、感染は起こらないと考えられている)。

環境要因としては、生育当時の上・下水道の未整備による飲料水の不衛生(井戸水等のH・ピロリ菌汚染)が考えられ、そのため、高齢者ほど保菌率は高く、若い世代の感染率は低い。

 

昭和初年当時は、今日のような胃・十二指腸潰瘍の治療薬もH・ピロリ菌の除菌治療薬も無かったため、多くの人が潰瘍の再燃を繰り返し、また潰瘍からの大量出血(吐血)による出(失)血性ショックや潰瘍による胃・十二指腸穿孔のため腹膜炎等を併発して死亡したり、胃がん等を発症したと考えられる。

以上から、藤井の持病であった潰瘍の発症・重篤(じゅうとく)化は、必ずしも、本人の「ちょっとした不注意」だけが原因ではなかったと思われる。

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