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人物・評伝

評伝 13

2025年11月9日

2025年11月11日改訂

​さかまき・たかお

​​早わかり

【内村鑑三・無教会】

-原点を知る-

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Kanzo Uchimura and the Non-Church Movement

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​内村鑑三

Kanzo Uchimura

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早わかり

内村鑑三・無教会

さかまき・たかお

1内村鑑三
♦1861(万延 2)~1930(昭和5)年。
明治・大正期の代表的なキリスト教指導者・思想家。

 

高崎藩(群馬県)武士の家に生まれ、儒学(じゅがく)の説く道徳と《武士道精神》の中で育った。


♦1877(明治10)年、札幌農学校(北海道大学の前身)2 期生として入学し、「少年よ、大志を抱(いだ)Boys, be ambitious !」で有名な米国の教育者ウィリアム・S・クラークの残した「イエスを信ずる者の契約」に署名し、後に入信した。


♦1884(明治17)年、23歳の時に渡米したが、プロテスタントの国、米国で見たものは、拝金主義と物質文明に毒された社会であった。

 

85(明治18)年、アマスト大学に入学し、翌86年、情愛溢(あふ)れる総長シーリーの大きな影響を受け、〈回心〉を経験した。一時、ハーフォード神学校で学んだ後、88年5月、帰国。


♦1891(明治24)年1月9日、第一高等中学校(のちの第一高等学校)の嘱託(しょくたく)教員であった内村は、教育勅語(ちょくご)の奉読(ほうどく)式で勅語の天皇の署名に対し十分な「低頭」、「奉拝」(=宗教的礼拝)を行わなかった。

これに対し、その場にいた学生、教師たちは内村の態度を天皇に対する「不敬」であると騒ぎ立てた。

 

この出来事は新聞でも広く報じられ、人々は内村に「不敬漢(ふけいかん)」、「国賊」と罵声(ばせい)を浴びせ、内村の自宅に石を投じる者まで現れた。


事件のさなか、内村は重い流感(りゅうかん、注1)にかかり、意識不明の重体になったが、同月末日、何者かによって内村名の辞表が提出されていた。

病勢がややおさまって意識を回復したとき、鑑三は、すでに、自身が一高(いちこう)の職を解(と)かれた身であること知った(「不敬事件」、注2)。


また内村の病気の間、看病に尽くすかたわら、外から押しかける抗議者を夫にかわって一手に引き受けていた妻かずも、鑑三の回復と入れ替わりに同じ流感のおかすところとなった。

そして2ヶ月あまりの病臥(びょうが)の後(のち)、4月19日、かずはこの世を去った。

内村は職を失ったあと、たて続けに最愛の妻をも奪われ、悲痛きわまりない暗黒の谷底をさ迷った。

そればかりかキリスト教会側は、教育勅語を「礼拝」したとして内村を厳しく糾弾(きゅうだん)し、排斥(はいせき)した。
こうして内村は国中、枕する所なき流浪
(るろう)生活に追い込まれた。
 

この不遇(ふぐう)の時代に、内村はその代表作である『基督(キリスト)信徒のなぐさめ』(1893年、注2)、『求安(きゅうあん)録』(1893年)、また英文の世界的名著である『How I Became a Christian』(1895年、邦題「余(よ)はいかにして基督信徒となりしか」、各国語に翻訳)などを次々と刊行した。


♦1897(明治30)年、『万(よろず)朝報』英文欄(らん)記者となり、軍国主義に向かう時代の中で軍備縮小を唱(とな)えるなど、政治、社会の矛盾を鋭く突く論調を貫(つらぬ)き、ジャーナリストとしても注目された。

 

日露戦争に際しては、信仰の立場から〈絶対非戦論〉を唱えるなど、信仰と世界的視野に立つ愛国と政治の論陣を張った。


♦1900(明治33)年、雑誌『聖書之(の)研究』を創刊。以後、その刊行と聖書講義が一生の仕事となった。


♦内村は、〈十字架教〉と称した福音(ふくいん)信仰と〈二つのJ〉(イエスと日本 Jesus and Japan)に生涯を捧げた。

 

内村にとって〈二つのJ〉は矛盾するものではなく、イエスへの純粋な内面的信仰によって、近代化の中で混迷する日本人の精神的再生を図(はか)ろうとした。 


また内村は、〈武士道に接(つ)ぎ木されたるキリスト教〉を唱えたが、それは、社会正義を重んじ、利害打算を超えて真理のために闘(たたか)うという《武士道精神》に根ざす〈日本的キリスト教〉であった。


内村は、キリスト教精神のもとに、生命(いのち)と平和の尊重を訴え、他国への侵略を讃美する排他的な愛国心を批判し、福音の真理を求め、人類の平和と発展に貢献する真の愛国者として生きようとした。


内村の預言者(よげんしゃ)的思想は、日本の宗教・教育・思想・文学・社会その他多方面に広く深い影響を及ぼした。

 

その門から、藤井武ふじい・たけし、キリスト教伝道者)、塚本虎二(つかもと・とらじ、キリスト教伝道者)、三谷隆正みたに・たかまさ、教育者・哲学者・一高教授)、黒崎幸吉(聖書学者・キリスト教伝道者)、矢内原忠雄(やないはら・ただお、社会科学者・キリスト教伝道者・東京大学総長)、南原繁なんばら しげる、政治学者・東京大学総長)ら多数の人材を輩出させた。

2.無教会主義
内村は、無教会主義のキリスト教を主張した。

 

これは、人間は神の前に立つ独立した人格であることを強調し、教会制度や儀式(洗礼・聖餐(せいさん)などの礼典)にとらわれず、各人が直接、聖書を読み、信仰の道を歩むことを重んじる在(あ)り方である。


これによって、外国ミッションからの自由・独立を貫(つらぬ)くと共に、神とイエス・キリストへの純粋な信仰に生きようとする思想である。

 

♢ ♢ ♢ ♢

(参考文献『日本大百科全書』、小学館、1985年。高等学校『倫理 用語集』山川出版社、2014年、鈴木範久『内村鑑三』岩波書店、1984年)

 

              
1
 流感
1890(明治23)年から翌91年にかけて、感染症の世界的な大流行(パンデミック)が発生し、日本にも波及した。

この流行は、当時「流行性感冒(かんぼう)」や「流感(りゅうかん)」と呼ばれた。

 

このパンデミックの正体は、当時の記録や疫学的な分析から、今日われわれが、「新型インフルエンザ」と呼ぶものであった可能性が大きい。

不敬事件
この「事件」について、内村晩年の弟子だった故・関根正雄(旧約聖書学者、キリスト教伝道者)は、次のような言葉を残している(『無教会キリスト教』弘文堂)。


不敬事件における礼拝拒否の一瞬間こそ、古き封建的日本とキリスト教によって培(つちか)われた新しき近代の日本がぶつかった記念すべき瞬間であった。

(注1の参考文献:若松英輔『内村鑑三 悲しみの使徒』岩波書店)

3『基督信徒のなぐさめ』
『基督信徒のなぐさめ』は、
次の6章から成る。


第1章 愛する者の失(う)せし時
第2章 国人
(くにびと)に捨てられし時
第3章 キリスト教会に捨てられし時
第4章 事業に失敗せし時
第5章 貧
(ひん)に迫りし時
第6章 不治の病
(やまい)に罹(かか)りし時

本書の序文の中で内村は、本書は「著者の自伝にあらず」と述べてはいるものの、いずれも「不敬事件」によってもたらされた著者自身の惨憺(さんたん)たる体験から発した声と言えよう(鈴木著『内村鑑三』、65項)。


不敬事件をめぐる一連の出来事は、その後の内村の信仰と思想に大きな影響を及ぼしたにちがいない。

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