― まごころで聖書を読む。そして、混迷の時代を神への信頼と希望をもって、力強く前進する ―
We read the Bible with all our hearts. And we move forward powerfully in this era of turmoil with trust and hope in God.
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最終更新日:2024年10月9日
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<各地の集会だより
集会だより 002
駒込キリスト聖書集会
2016年5月23日
あらい
【集会紹介】
◇集会名:駒込キリスト聖書集会
◇主宰者:アライ
◇聖日礼拝
日曜日 午前10時~12時
◇早天祈祷会
火・木・土曜日 午前7時~7時30分
◇場所:駒込キリスト聖書集会伝道所
◇住所:〒113-0021
東京都文京区本駒込6-11-16
◇TEL:03-3943-3004
◇メールアドレス: k_arai2005_at_ybb.ne.jp
(スパム防止のため、@を_at_に変更)
◇HP:「駒込キリスト聖書集会」で検索
◇現在十数人で毎週聖日に礼拝を行っています。
教会から来られた方々が多いことが特徴で、40歳代後半~50歳代が中心の集会です。
皆それぞれが礼拝に真摯に臨んでおり、お互いをだいじにし合うことを心がけつつ集っています。
聖日礼拝の後には愛餐会を毎回持ち、主の御臨在のもとに、それぞれの近況・課題を語り合う時間としています。
現在聖書講話はアライが毎週行っています。
( )内は、サイト主催者による補足。
〖殺人者としての贖罪論〗
『十字架の祈り』2016年4月号、巻頭言より
「キリスト・イエスは、罪人を救うためにこの世にきて下さった」という言葉は、確実で、そのまま受けいれるに足るものである。わたしは、その罪人のかしらなのである。」(Ⅰテモテ書 1:15 口語訳)
人間の罪は、人を殺すほど恐ろしいものです。それを味わったことがあるでしょうか。
「罪人のかしら」とはまさに私のことです。
人がほんとうに自分の罪に気付く時、自らが人を殺すほどの罪を持ち合わせていることに驚愕するのであり、同時に、主イエス・キリストを殺したのはこの私である、と白日のもとに確信するに至るのです。
「父よ、彼らをお赦しください。自分が何をしているのか知らないのです。」(ルカ 23章34節)
しかし主は主を殺しし私をも赦し給うという赦しを与えられるとき、わが魂はほんとうに救われるのです。
私の贖罪論は刑罰代受ではありません。主の殺害者としての贖罪論です。私は主の殺害者として一生生きるでしょう。
しかし主は言われます、「わたしもあなたを罪に定めない。行きなさい。これからは、もう罪を犯してはならない」。(ヨハネ 8:11)
わたしはその主の御赦しにおいてのみ、生きることができるのです。ふたたび人を殺さないという祈りにおいて。
私はいつも祈ります、二度と人を十字架に架(か)けることはしない、と。
罪は、罪は、と人は軽く言います。しかし、人間の罪は本当に恐ろしい。人が人を十字架に架けるほど残虐なものです。
それを味わい知るには、人が一人の命を失わなければならないほどのものです。そうならなければわからないほど、人は己の罪への理解が鈍感です。
神の子はまさに人に罪の深さを気付かせるためにこそ、十字架に架かって下さったのです。自ら殺されることを通して、人間に罪を知らせるために。
罪の赦しを自らを殺した者に与えるために。
♢ ♢ ♢ ♢
【筆者注】
高橋三郎先生も、かつて「私の贖罪論」(『高橋三郎著作集』最終巻所収、755頁)という文章で、私と似ている贖罪論を記されました。
それを読まれると一つのご参考にもなると思います。
しかし私の文章は神様からの直結のものであり、先生の文章とは独立したものであることを明示しておきます。
〖十字架の恵みは何処(いずこ)から〗
エルサレムの水源はエルサレム城外のギホンの泉でした。そこからの水はシロアの水と言われて、城内のシロアの池に注ぎ込まれていました。
城内の恵みは城外から注がれていたのです。
ゴルゴダの丘は、エルサレム城外に在ったそうです。そこでイエスは十字架に架けられました。
真のエルサレムの恵みは城外の主イエスの十字架からでありました。城内のエルサレム神殿からではなかったのです。
私たちはそこに外と内の厳格なる関係を見いだします。
外が無ければ、内も無いのです。内だけの真理はあり得ないのです。
救いは外から来る。それを内で受け止める。
救いはわが内のみでは完結しません。外からの恵みが必要なのであります。
恵みはわが外側の十字架から来ます。そしてわが内なる十字架でそれを受け止めるのです。
外なる十字架を見つめ、その恵みをわが内なる十字架で受け止めるのです。
今号は、その消息を聖書に基づき見つめて頂けるなら幸いです。
♢ ♢ ♢ ♢
(『十字架の祈り』2016年4月号、今号の視座より)