
― まごころで聖書を読む。そして、混迷の時代を神への信頼と希望をもって、力強く前進する ―
We read the Bible with all our hearts. And we move forward powerfully in this era of turmoil with trust and hope in God.
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最終更新日:2023年6月8日
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一人はさみしい。
しかし、それは自分が他人に認められないからというような、利己的な、さもしい理由からではない。
〔そうではなく、〕人〔々〕の認めない真理を、自分一人だけが見抜いているからである。
人が真理を認め〔ず、また真理に従わ〕ないのを見て、私は怒り、憤(いきどお)る。しかし人に向っての憤りは空しく、その反響は己(おの)れに返る。
〔そして、〕己れに帰って、真理の傍(かたわ)らに立つ者がただ、微(かす)かに自分一人であるのを見るとき、そこに無限の悲哀(ひあい)を禁じ得(え)ないのである。
真理は万人(ばんにん)に〔尊ばれ、〕仰がれるべきものであるにもかかわらず、しかも〔真理は〕常に少数者にしか認められない。
真理そのものに、この悲哀性がある。現世に於ける限り、悲哀は真理の属性である(注1)。
したがって真理を知る少数者も、自ら悲哀をその性格とする人たらざるを得ない。
預言者エレミヤは、春浅き野に出て巴旦杏(はたんきょう、アーモンド)の花がすでに咲いているのを見た(注2)。
〔世の〕万人が日常、「目覚(めざ)めの木」と呼ばれるこの花を見ているけれども、彼らは見て〔いて、しか〕も見えないのである。
ただエレミヤ一人だけが、見るべきものを見た。神が目を開けておられることを、彼一人が気づいた。
〔こうして〕彼は、聖召(めし)の出発点より、悲哀の人たるべく定められたのである。
〔ある時、〕彼は台所に立った。〔時に、〕北からこちらに向いて、鍋(なべ)が煮え立って来る。
鍋の煮え立つのは、日常、誰でも見ている。
しかし見るべきものを見たのは、エレミヤ〔ただ〕一人であった。
国民は、いたずらに自国〔、ユダ王国〕の天佑(てんゆう、注3)を誇っていた。
〔その中で、〕彼一人が、戦禍(せんか)が北から及んで、アッシリア〔帝国〕軍のために国土が蹂躪(じゅうりん)されることを見抜いた〔のである〕。
それは、国民として最も望ましくないもの、最も信じ得ないことであった。
しかし彼が神の正義と国民の罪とを並べて見たとき、彼が国民の行いつつある事件の真相を見抜いたとき、亡国の運命は不可避(ふかひ)の道として備えられていることを知ったのである。
民衆は空(から)騒ぎをしている。偽(いつわり)の〔政治〕宣伝(プロパガンダ)の上に〔マインド・コントロールされて、〕乱舞(らんまい)している。
〔その中で、〕エレミヤ一人が事実の真相と国難の原因とを見抜いている。彼の悲哀は、この認識から生じた。
この真相、この真理を公(おおやけ)に人〔々〕に語ろうか。
〔しかし、〕人〔々〕は自分〔の言うこと〕に聞くまい。そればかりか、人〔々〕が自分をどのように取り扱うだろうかということも、分かっている。
今は悪い時代である。非常時である。自分一人が語っても、何になる。それは犬死でないか。
そう思う。
そう思うけれども、神の言葉は〔わが〕骨の中に籠(こも)って火が燃えるかのよう〔であって〕、忍(しの)ぶに余り、耐えきれない。
〔それゆえ、〕エレミヤは語った。彼一人、真実に従って語った。彼のこの行動は、実に、悲哀そのものであつた。
結果は、彼の予期したとおりであった。
恐喝と嘲弄(ちょうろう)、殴られ唾(つばき)され、拘留され投獄され、また自称、愛国者輩の私刑(リンチ)にあって〔彼は〕井戸に投げ込まれた。
このようなことは、もちろん苦痛であつた。
しかし〔、迫害による〕肉体の苦痛は、エレミヤにとって最大の悲哀ではない。それは彼の悲哀の結果であつて、原因ではなかった〔のである〕。
神の真理、事件の真相、国難の根本原因を彼一人が〔神から〕示され、彼一人〔が〕語って、〔しかも〕民衆はこれを知らず、これを語らず、ガダラの山坂を駈け下(くだ)る豚の群のごとく、神の怒りへと、滅亡の湖水へと、盲進しつつあること。
これが彼の悲哀であった。
真理は孤独に呻(うめ)いている。〔そして〕エレミヤもまた、孤独に呻いたのであった(注4)。
誰か一人〔が〕、神の真理を担(にな)わねばならない。
誰か一人〔が〕、神の真理のために《悲哀の人》とならねばならない。
誰か一人〔が〕、神の真理のために殺されねばならぬのだ。
思えば、真理は厳粛であり、悲哀である。
イエスは、最大の《悲哀の人》であった。
神は人類を見渡して義人(ぎじん)がいないことを〔驚き〕怪(あや)しみ、誰か人々のために己れを捨てて贖(あがな)いを為(な)す者はいないかと〔探し〕求めつつあったときに、進み出て十字架に上(のぼ)られたのがイエスであった。
彼一人が真理と共にあり、彼一人が真理に従って行動した。十字架のイエスは、徹底した悲哀〔そのもの〕である。
イエスを信ずる者は、イエスのこの生命(いのち)を賜(たま)わる。彼らは真理を知る眼と、真理を聞く耳と、真理を語る舌とを与えられる。
それは、彼らの生涯が〔イエスに倣(なら)って〕悲哀の生涯であることを約束するものにほかならない。
民衆が巻物(教育勅語)を拝んだときに、ただ一人、内村鑑三は巻物を拝まなかった(注5)。
民衆が〔日露〕戦争に熱狂するとき、ただ一人、彼は非戦を唱(とな)えた。
民衆が〔これで世界の平和が来ると〕国際連盟を謳歌(おうか)するとき、彼ただ一人、平和がそこから生まれないことを見抜いた。
民衆が結婚の自由と便宜(べんぎ)とを思うとき、藤井武(たけし)はただ一人、結婚の神聖を唱えた。
民衆が〔関東大震災後の〕帝都復興と国運隆盛を祝ったとき、彼ただ一人、〔愛する祖国に向い、熱涙をもって〕「亡びよ」と叫んだ(注6)。
内村逝(い)き、藤井逝き、日本は今や、非常時に遭遇(そうぐう)している。怖るべき事が起りつつある(注7)。
彼らに続いて《悲哀の人》となるべく定められている者は、誰であろうか。ああ!
♢ ♢ ♢ ♢
(『通信』5号、1933〔昭和8〕年3月を現代語化。〔 〕、( )内は補足)
注1 悲哀は真理の属性
属性(ぞくせい)とは、そのものにもともと備わっている性質のこと。また、あるものに固有な性質。その性質を欠けば、そのものでなくなるような性質のこと。
したがって、「悲哀(ひあい)は、真理の属性である」とは、「悲哀は、真理にもともと備わっているものである」こと、また、「悲哀は真理に固有な性質で、悲哀を欠けば、真理は真理でなくなる」ことを意味する。
注2 預言者エレミヤ
ユダ王国末期、ヨシヤ、エホアハズ、エホヤキム、エホヤキン、ゼデキヤの諸王の時代(前627~586年頃)にエルサレムで活動した預言者。
エレミヤの歴史的背景:
エレミヤはヨシヤ王の第13年(前627年)に預言者として活動を始めた。
そのころ近東の歴史は激変しつつあり、強国アッシリアが滅び、新バビロニアが台頭した。ユダ王国は、この新バビロニアによって政治的独立を奪われ、その一州となった。
エレミヤは国家存亡の危機において、人々がいかに新事態に対処すべきかを教示した旧約史上の偉大な預言者のひとりである。
彼の故郷はアナトテ(エルサレムの北東約6km、レビ人の町)で、祭司の家系であった(エレミヤ書1:1)。エレミヤは、ヤハヴェ宗教の厳格な祭司的伝統のもとに、教育を受けたと思われる。
エレミヤは20歳頃に預言者として召命(しょうめい)を受けた。
彼はまず、人々の不信仰を非難し、ヤハヴェに立ち帰ることを主張した(3:12、14、22)。そして北からスクテヤびとが攻撃することを預言した(1:13~)。
紀元前622年のヨシヤ王の宗教改革に、エレミヤは当初、賛成した。
改革では、礼拝所をエルサレムに集中することが要求されたが、エレミヤの家系は地方聖所の家系であったので、彼は親族に憎まれた(11:21~23)。
また、人々のエルサレム神殿に対する迷信を攻撃して神殿の滅亡を預言し、また非戦を唱えたことから、売国奴視され、民衆にも憎まれた(26章)。
弟子のバルクに今までの預言を巻物に書かせ、エホヤキム王の前で読ませたとき、王は怒ってその巻物を小刀で切り裂いた。
ゼデキヤ王のとき、彼はバビロニア王ネブカドネザルに服従することを主張したが、聞き入れられず、エルサレムはついに滅ぼされた。
その後、ユダの総督に任じられたゲダリヤが暗殺されたとき、バビロニアの報復を恐れたユダの人々は、反対するエレミヤを道連れにエジプトへ逃亡した。
エレミヤの最期(さいご)は不明であるが、エジプトで殉教(じゅんきょう)したと言われている。
(参考文献:『旧約聖書Ⅷ エレミヤ書』岩波書店、2002年。『聖書 スタディ版 新共同訳』日本聖書協会、2014年、人名索引。『キリスト教人名辞典』日本基督教団出版局、1986年。『新聖書大辞典』キリスト新聞社、1979年)
注3 天佑(てんゆう)
天の助け、神の助けのこと。
注4 矢内原忠雄著「エレミヤ記の研究」より
「エレミヤよ、あなたを思うことは、私にとって霊感(インスピレーション)である。
あなたの悲哀は、万人の悲哀に勝(まさ)る。それは、あなたの真実が万人の真実にまさったからである。
あなたは秋天の星のように澄む。あなたを仰(あお)いで、我らは世と我らの虚偽を知る。
エレミヤよ、あなたのような生涯が世にあったとは!
あなたの労苦に比べれば、我らの労苦は児戯(じぎ)であり、あなたの信仰に比べれば、我らの信仰は妥協である。
あなたは、秋の野のりんどうのように澄む。エレミヤよ、〔どうか、主にあって〕、我らを深くし、また強くしてくれるように。」
(『通信』36号より抜粋し、現代語化。( )、〔 〕内は補足)
注5
《内村鑑三不敬事件》のこと。
注6 藤井武「亡びよ」
注7 当時の歴史的状況
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