9月<内村鑑三「一日一生」現代語訳

 

9月6日~9月10日

(2017年 9月15日更新)

 

このページは、山本泰次郎、武藤陽一編『 一日一生』(教文館、1964年)を現代語化したものです。

【9月6日】たぶん、祈祷に関する(祈りについての勧告)

何事も思い煩(わずら)ってはならない。

ただ、事ごとに、感謝をもって祈りと願いとをささげ、あなたがたの求めるところを神に申し上げるがよい。

そうすれば、人知ではとうてい測り知ることのできない神の平安が、あなたがたの心と思いとを、キリスト・イエスにあって守るであろう。 (ピリピ人への手紙 4:6~7 口語訳)

たぶん、祈祷(きとう)に関する教訓で、これよりも完全なものはあるまい。私は、これを最も常識に適(かな)った教えであると言いたい。

心配ごとは、大小に関係なく神に申し上げなさい。そうすれば、〔すべての思惑や分別に勝(まさ)る神の〕平安があなた方に臨(のぞ)むであろう、というのである。

思い煩(わずら)は、自分の運命を自分で打開し、自分の未来をなんとか手中に握ろうとする人間のあがきである。

 

未来を左右したもう者は、ただ神のみである。それゆえキリストの者たちは、思い煩いを捨てて、神に祈るべきである。〕

パウロは〕あなたがたの祈願きがん、注1)はすべて聞かれるだろう、とはいわない。〔むしろ、〕平安があなたがたの心と思いとを守るであろう、という。

こうして〔実に〕、〔われらの〕祈祷は祈祷以上に聞かれるのである。

かつ又(また)祈りは祈祷願い感謝であるという。

祈祷は、自己を空しくして神に依(よ)り頼む心の状態である。願いは祈願である。そして、これに過去の恩恵に対する感謝を加える。

感謝によってはじめて願いは、キリストにある者の真実の祈りとなる。〕このようにして、完全な祈祷が成立する〔のである〕。

思い煩いと祈りとは両立しない。思い煩いと正反対の消息(しょうそく)は、感謝である。感謝する者は、神に思い煩いを委(ゆだ)ねる

 

キリスト信徒も人の子として、さまざまな悩みや願いを持っている。だが彼はそれをすべて、われらのために正しく配慮して下さる者の御前(みまえ)に携(たずさ)え行く

 

彼の祈りは、神に対して自分の要求を持ち出すことでなく、むしろ感謝を基調とする信頼の表明である。〕

自分の祈りが表面的に、〕聞かれる、聞かれないの問題ではない。〔それとは関わりなく、〕ただ神に申し上げるのである。

小児(こども)、信頼する母親に何でも知らせるように、神に〕お知らせするのである。

 

そうすれば、あらゆる人知を越える〔神の〕平安〔、平和〕がキリストにあって信徒の心と思いとを〔包み込み、すべての悪から〕守るであろう、という。

 

神の〕平安〔、聖霊の喜び〕が心を占領し〔、キリストにある神の豊かさが溢れて〕、〔他の〕雑念が心を乱すことはないであろう、とのことである。


(原著:内村鑑三『聖書注解全集 11巻』「ピリピ書の一瞥」、70項。補足の参考文献:『NTD新約聖書注解 8』ゲルハルト・フリードリッヒ著、杉山好訳「ピリピ人への手紙」、1979年、317~318項)

 

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注1 祈願(きがん)

神に願いを込めて祈ること。また、ある目的が達成されるように、神に祈り願うこと。

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【9月7日】真理は聞いただけでは(最も確かな真理)

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【9月8日】信仰は人を無限の神につなぐ

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