信仰と人生

信仰に生きる 027

2021年4月19日改訂

内村鑑三

 

艱難の目的

原題:何のための艱難か

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何のための艱難(かんなん)か。


罪を(ばっ)するための艱難ではない。

愛なる神は、人の罪を罰するために艱難を下されない。

 

それならば、何のための艱難か。


自分の罪を贖(あがな)うための艱難ではない。

もし、艱難の目的がこれであるならば、自分は終生(しゅうせい)艱難を〔受け〕続けても、その目的を達成することはできない〔。人は自らの力で、自分の罪を贖うことはできないからである〕。


また、他人(ひと)の罪を贖うための艱難ではない。

たとえ〕わが身を〔犠牲として〕焼かれるために与えたとしても、〔罪人(つみびと)の〕私は他人の罪を贖うことはできない〔。

人の罪を贖うことができる者は唯(ただ)一人、罪無き《神の御子》イエスのみ〕。


それならば、何のための艱難か。


イエスを〔真に〕知るための艱難である。

イエスと共に艱難(くるし)み、彼の生命の分与(ぶんよ)にあずかるための艱難である。
 

パウロの言葉で言うならば、


私は、キリストと復活の力を知り、その苦しみにあずかって、その死の姿にあやかりながら何とかして死者の中からの復活に達したい」のである(フィリピ 3:10~11 聖書協会共同訳、以下同訳より引用)。


それゆえ私は、イエスがその身に受けられた艱難を残らず、わが身に受ける必要があるのである。


イエスは、国人(くにびと)に捨てられた。

私もまた〔イエスと同様、〕国人に捨てられるとき、彼の、その艱難にあずかることができる。


イエスは〔最も信頼していた〕友に〔よって、敵に〕売られた。

私もまた、友に〔よって〕売られるとき、イエスと〔共に〕その艱難を分かつことができる。


イエスには、世人(ひと)の知らない色々な艱難が臨(のぞ)んだ。

そして神の恩恵により、私にもまた〔、イエスと〕同じ艱難が順を追って臨むとき、ますます深くイエスを知り、同時にまた、イエスの復活の能力(ちから、真生命)を知ることができるのである。

まことに、イエスを知ることは限りない生命(永遠の生命である(ヨハネ福音書 17:3)。


そしてイエスを知るために必要な艱難を〔わが身に〕受けることは、彼の生命(いのち)を受けるために必要〔なこと〕である。

艱難を、イエスを知るための必要〔物〕と解するとき〔初めて〕、艱難の意味は明白になるのである。


だから艱難の多いことは、決して嘆(なげ)くべき〔こと〕ではない。


キリストの苦しみが私たちに満ちあふれているように、私たちの受ける慰めもキリストによって満ちあふれているからです」と〔聖書に〕ある(コリントⅡ1:5)。


世には、艱難の多いことを理由に〔、あいつは〕「艱難の問屋(とんや)」だ、と嘲(あざけ)る教会信者がいる。

しかしながら、このように言う人は、いまだ艱難の意義も価値も知らないのである。


実にイエスご自身が「艱難の大問屋」であられた〔。その最大のものは、彼の十字架である〕。

そしてわれらは、艱難を多く受ければ受けるほど、それだけイエスに近づき、彼に似〔た者とな〕ることができるのである。

艱難を知らない者はイエスを知らない者である〔、と言って過言ではない〕。


それゆえパウロは言った、


私は、弱さ、侮辱(ぶじょく)、困窮(こんきゅう)、迫害、行き詰まりの中にあっても、キリストのために喜んでいます」と(コリントⅡ12:10)。


まことに(く)ちる金よりも貴(とうと)く、光る金剛石(こんごうせき)よりも値(あた)い貴きものは、われわれに臨むさまざまな艱難である。


それゆえ艱難の中にある友よ。苦難の主イエスを仰(あお)いで、慰めと生命を受けよ。〕
 

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(原著:「何のための艱難か」、『聖書之研究』1914年3月所収を現代語化、( )、〔 〕内、下線は補足)

注1 永遠の命とはイエスを知ること

​「永遠の命とは、唯一まことの神であられるあなたと、あなたのお遣(つか)わしになったイエス・キリストを知ることです。(ヨハネ福音書 17:3  聖書協会共同訳)

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