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神学研究(神学・論文&教義学)

神学・論文 025

2025年10月9日

2025年11月5日改訂

さかまき・たかお & A I

Summary of the

Theory of Atonement by Grace

要約

恩寵贖罪論

by TAKAO SAKAMAKI & AI

The English translation is located in the middle of this page.

한국 번역은 이 페이지의 뒷부분에 있습니다.​

注:この要約を読んだあとは、神学・論文022恩寵贖罪論に進み、理解を深められることをお勧めします。​

After reading this summary, I recommend that you proceed to Theology Paper 022, "Atonement by Grace," for a deeper understanding.

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イエス 罪人を赦す01_edited.jpg

すべての人の、赦しと救いのために

To Forgive and Save All

* * * *

要約

恩寵贖罪論

さかまき・たかお & A I

​以下は、Microsoft AI Copilot による要約「恩寵贖罪論」の著者・さかまきが校閲(こうえつ)したもの

🔍 第 章:なぜ今、贖罪論なのか
世界と人間の根本問題
この章は問題提起である。


現代社会の破壊と悲惨の根底には、人間の「罪」の問題があるとし、キリスト教贖罪論はその根本治療を指し示すものとして位置づけらる。


論者は、贖罪(罪の赦し)は単なる教義ではなく、罪の問題に苦しむ現代世界を癒(いや)す神の方法であると強調する。


しかし現在主流となっている刑罰代受説(けいばつだいじゅせつ)には、聖書学と神学の側から重大な疑義が寄せられている。

刑罰代受説は世界の争いに深く関わっているのではないか」との問いである。


ここでのキーワードは《平和の福音》(エフェソ 6:15)。

従来の伝統的贖罪論を再考することは、暴力的な神理解(神観)を乗り越え、《平和の福音》としてのキリスト教を回復する道であるとされる。
                           

⚖️ 第 章:刑罰代受説とアンセルムスの満足説
加虐的神観の起源
中世の司教アンセルムスによる《満足説》は、中世の封建社会を背景にして神を無慈悲で冷酷な封建領主のように描き、罪に対する神の報復(=処罰)を求める構造を持つ。


これが後の、《刑罰代受説》に引き継がれ、イエスの十字架死を「神の怒りの代償」として理解する神学が形成された。


論者は、この神学構造が神の愛と赦しの本質を歪(ゆが)め、加虐的な神像(神観)を生み出す元凶(げんきょう)であると批判する。

🧨 第 章:高橋三郎による刑罰代受説批判
「刑罰代受説の問題点」の指摘
高橋三郎(無教会第三世代の代表的指導者)は、刑罰代受説が〈罪を罰する恐怖の神〉を描き、この神観と連動する形でキリスト教の加虐性を生み、これが〈暴力と支配の神学〉を正当化していると指摘する。


特に刑罰代受説に依拠した「天に代わりて不義を討(う)つ」という考え方が、軍事力を背景とした西欧列強による世界の分割・植民地化の歴史に見られるように、戦争の正当化を含め、宗教的暴力や排他性を生む温床となってきたとする。

刑罰代受説》などの伝統的贖罪論が〈暴力の神学〉に転化している現状を問い直す章である。

🕊️ 第 章:平和の福音の回復
贖罪論の再構築
ここでは、贖罪論は、イエスの十字架を神の怒りを鎮めるための犠牲として描くのではなく、聖書、特に福音書の証言に基づき、神の赦しと和解の道として再構築する必要が語られる。


新しい贖罪論は、その本質において〈暴力の神学〉ではなく、平和の福音》を回復する〈平和の神学〉であるべきだという転換点を示す。

✝️ 第 章:内村鑑三の「十字架教」

内村鑑三は、教会制度や儀式(礼典)に依存しないキリスト教信仰の在り方を《無教会主義》(Non-Churchism)と呼び、キリスト教の新しい呼び名として《十字架教》を提唱した。


内村は、イエスの十字架を〈キリスト教の隅(すみ)の親石〉、すなわちキリスト教の核心として受けとめたのである。


十字架に対する内村の集中に見られるように、イエス・キリストの十字架は聖書的贖罪論の基本線であり、この十字架を正解できるかどうかが贖罪論の正否を決定づける。

🌿 第 章:十字架=イエスの生の帰結
この章は論考の核心。


《インマヌエル》としてのイエスの生涯
イエスは、インマヌエル(神、われらと共にいます)を体現した方

彼は疎外(そがい)された者、罪人・社会的弱者にどこまでも寄り添い、彼らに対し罪の赦しを宣言し、癒しを実践した。人々を神のもとに招いた。


その生涯は、「神、われらと共にいます」の証(あか)そのものであった。

十字架の道
イエスの十字架は、彼の生涯の延長、また必然的帰結であり、神の愛と真実の究極的な啓示である。

 

十字架は、罪人の身代わりとしての犠牲(処罰)ではなく、すべての人に対する神の赦しと和解の招きとして受けとめられる。

🙏 第 章:十字架の祈り
キリストとの同時性(S・キルケゴール)
十字架を取り囲む群衆の中に「私」がいるという認識は、私たちがイエスの苦しみと祈りに直面し、同時的に参与することを意味する。

《執りなしの祈り》による赦しと和解
イエスの十字架上の祈り(ルカ 23:34a;「彼らの罪を赦してください」)は、自らを十字架に付けた敵に対する《執(と)りなしの祈り》。

 

この祈りがすべての人の赦しの根源、また究極の根拠である(イエスの《執りなしの祈り》は、赦しと和解の絶対他力)。

神の愛のことばとしてのイエスの生涯
イエスの全生涯そのものが神の愛の言(ことば)であり(ヨハネ 1:14、注1)、十字架はその帰結であり、頂点である。

時空を超えた赦しと和解
イエスの祈りは、時空の隔(へだ)たり(時代と場所の違い)を超えて私たちに届く。

 

イエスの十字架による贖罪(罪の赦し)は過去の歴史的出来事ではなく、イエスの祈りに私たちが参与することで成立する「今・ここで」の出来事

すべての人-万人-に向けられた、神の和解の呼びかけである。

🌅 第 章:結語―十字架と新生
わが救いとしての十字架
十字架は、私たちの救いのための神の自己贈与であり、暴力(神による懲罰)の象徴ではなく、無償の愛(アガペー)と赦しの顕(あらわ)れである。

神の像(神観)の転換
刑罰代受説の「怒りの神」ではなく、イエスが示したアッバ(お父ちゃん)としての 愛と赦しの神こそが真の神の姿である(イエスの「革命的な神観」注2)。

イエスに倣う道
いかなる時も、主の御手(みて)は私を離さない」(詩篇 139:10)という信頼と確信のもと、他者のために生きたイエスに倣(なら)って日々を歩むことが、キリスト者の《新生》の道である。

 

これはエクレシア(神の教会)が《(=他者)のために存在する教会》(D・ボンヘッファー)として歩むことと即応する。

🧩 まとめ:恩寵贖罪論の意義
恩寵贖罪論(神の恵みによる罪の赦し)は、刑罰代受説に代表される神の加虐性からキリスト教贖罪論を解放し、イエスの生涯と祈りに根ざした〈神の恩寵による赦し〉へと贖罪論を再構築する試みである。


贖罪とは、神の怒りを鎮(しず)めるための罪の処罰(=罪人の代理としての犠牲)ではなく、神の一方的な愛(アガペー:無償の愛)による赦しと和解の働きである。


私たちは、神の恩寵に生きる者として新たに生まれ変わることによって、イエスの生涯と祈りに参与するよう招かれている。

 

♢ ♢ ♢ ♢

1 神の言としてのイエス

新約聖書ヨハネ福音書に次のように記されている(ロゴス=キリスト論)。

「初めに言(ことば、ロゴス)があった。言は神と共にあった。言は神であった。この言は、初めに神と共にあった。・・・

言は肉〔体〕となって、私たち〔人間〕の間に宿った。私たちはその栄光を見た。

それは父の独(ひと)り子としての栄光であって、恵みと真理とに満ちていた。・・・

律法はモーセを通して与えられ、恵みと真理はイエス・キリストを通して現れたからである。

 

いまだかつて、神を見た者は〔誰一人〕いない。父の懐(ふところ)にいる独り子である神〔・イエス・キリスト〕、この方が神を示されたのである(ヨハネ 1:1~2、14、17~18)。

イエスの革命的な神観“アッバ”(お父ちゃん)としての神
​​イエスの革命的な神観が最も端的に表れているのは、「父の愛の物語」の父親の姿であり(ルカ 15:11~24)、「迷い出た羊」のたとえに登場する羊飼いの姿である(マタイ 18:10~14)。


後者の「迷い出た羊」のたとえについて、三谷隆正みたに・たかまさ、1889-1944、内村鑑三門下の無教会キリスト者、教育者・法哲学者は感銘を込めて次のように述べている。


「今の私たちにもよく分かることは、キリストが私たちに示された神は、天にいますわれらの父であって、父なる神は私たち一人ひとりのために〔実に〕細やかに配慮して下さり、私たちの最も小さき者、幼き者であっても、否(いな)、一羽の雀(すずめ)さえもが(マタイ10:29)、それぞれ独特の個(ひとり)として、〔他との比較を超えた〕独自の〔価〕値を持つものである、ということであります。
 

言い換えれば、天におられる父なる神は、私たち創(つく)られた者を〔かけ替えのないものとして、〕個別的に一人ひとり記憶しておられるということであります。

 

そして、このことがとりもなおさず、「神は愛である」ということの意味であります」。

(三谷隆正著「S童子を葬(ほうむ)る詞(ことば)」より現代語による引用。下線、〔 〕内は補足・敷衍)

​英 訳

□ English translation

Summary of the

Theory of Atonement by Grace

by TAKAO SAKAMAKI

🔍 Chapter 1: Why Atonement Now?
Fundamental Problems of the World and Humanity


This chapter presents a problem statement.

The author argues that the root cause of modern society's destruction and misery lies in the problem of human "Sin," and positions Christian atonement as pointing to a fundamental cure.

The author emphasizes that atonement (forgiveness of Sin) is not merely a doctrine but God's way of healing the modern world's suffering from the problem of Sin.

However, the currently mainstream theory of substitutionary penal conduct has been seriously questioned in biblical and theological circles.

The question is, "Isn't substitutionary penal conduct deeply connected to world conflict?"

The key word here is "the gospel of peace" (Ephesians 6:15).

Rethinking traditional atonement theory is said to be a path to overcoming a violent understanding of God and restoring Christianity as the "gospel of peace."

⚖️ Chapter 2: The "Substitutionary Penalty" and Anselm's "Satisfaction" theory

The Origins of a Sadistic View of God


The "Satisfaction" theory of the medieval bishop Anselm, set against the backdrop of medieval feudal society, portrays God as a merciless and cruel feudal lord and has a structure that calls for divine retribution (i.e., punishment) for sin.

This was later carried over into the "Substitutionary Penalty," which led to the formation of a theology that understands Jesus' crucifixion as "the price paid for God's wrath."

The author criticizes this theological structure as distorting the true nature of God's love and forgiveness and as the root cause of a sadistic image of God.

The rest of the English translation is in preparation.

* *

韓国語訳

■ 한국어 번역

요약 은총 속죄론  

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