top of page

人物・評伝

評伝 13

2025年11月9日

2025年12月2日改訂

​さかまき・たかお

​​早わかり

【内村鑑三・無教会】

-原点を知る-

Quick Guide

Kanzo Uchimura and the Non-Church Movement

- Understanding the Origins -​

​​関連リンク Related Links

評伝 藤井武私の観た内村先生〗へ

評伝 矢内原忠雄日本思想史における内村鑑三の地位

人物紹介内村鑑三〗へ

* * *

内村鑑三02_edited.jpg

​内村鑑三

Kanzo Uchimura

* * * *

早わかり

内村鑑三・無教会

さかまき・たかお

1内村鑑三
♦1861(万延 2)~1930(昭和5)年。
明治・大正期の代表的なキリスト教指導者・思想家。

 

高崎藩(群馬県)武士の家に生まれ、儒学(じゅがく)の説く道徳と《武士道精神》の中で育った。


♦1877(明治10)年、札幌農学校(北海道大学の前身)2 期生として入学し、「少年よ、大志を抱(いだ)Boys, be ambitious !」で有名な米国の教育者ウィリアム・S・クラークの残した「イエスを信ずる者の契約」に署名し、後に入信した。


♦1884(明治17)年、23歳の時に渡米したが、プロテスタントの国、米国で見たものは、人種差別、そして拝金主義と物質文明に毒された社会であった。

 

’85(明治18)年、アマスト大学に入学し、翌 86年、情愛溢(あふ)れる総長シーリーの大きな影響を受け、〈回心〉を経験した。一時、ハーフォード神学校で学んだ後、 88年5月、帰国。


♦1891(明治24)年1月9日、第一高等中学校(のちの第一高等学校、今日の東京大学教養学部)の嘱託(しょくたく)教員であった内村は、教育勅語(ちょくご)の奉読(ほうどく)式で、キリスト信徒の良心から、勅語の天皇の署名に対し最敬礼の「奉拝」(=宗教的礼拝)を行わなかった。

これに対し、その場にいた1,000名の学生および教員らは、内村の態度を天皇に対する「不敬(ふけい)」であると騒ぎ立てた。

 

この出来事は新聞でも広く報じられ、人々は内村に「不敬漢(ふけいかん)」、「国賊(こくぞく)」と罵声(ばせい)を浴びせ、内村の自宅に石を投じる者まで現れた(注1)。


事件のさなか、内村は重い流感(りゅうかん、注2)にかかり、その後肺炎を併発して意識不明の重体になったが、同月末日(まつじつ)すでに、何者かによって内村名の辞表が提出されていた。

病勢がややおさまって意識を回復したとき、鑑三は、すでに、自身が一高(いちこう)の職を解(と)かれた身であること知った(「内村鑑三不敬事件」、注3)。


また内村の病気の間、看病に尽くすかたわら、外から押しかける抗議者を夫にかわって一手に引き受けていた妻加寿(かず)も、鑑三の回復と入れ替わりに同じ流感のおかすところとなった。

そして2ヶ月あまりの病臥(びょうが)の後(のち)、4月19日、加寿はこの世を去った。

内村は職を失ったあと、たて続けに最愛の妻をも奪われ、悲痛きわまりない暗黒の谷底をさ迷った。

そればかりか、キリスト教会の指導者・植村正久(うえむら・まさひさ)は内村を厳しく糾弾(きゅうだん)し、また多くの教会は累(るい)が及ぶことを恐れ、内村を拒絶した。


こうして内村は国中、枕する所なき流浪(るろう)生活に追い込まれた(注4)。

この不遇(ふぐう)の時代に、内村はその代表作である『基督(キリスト)信徒のなぐさめ』(1893年、注5)、『求安(きゅうあん)録』(1893年)、また英文の世界的名著である『How I Became a Christian』(1895年、邦題「余(よ)はいかにして基督信徒となりしか」、各国語に翻訳)などを次々と刊行した。


♦1897(明治30)年、『万(よろず)朝報』英文欄(らん)記者となり、軍国主義に向かう時代の中で軍備縮小を唱(とな)えるなど、政治、社会の矛盾を鋭く突く論調を貫(つらぬ)き、ジャーナリストとしても注目された。

 

日露戦争に際しては、信仰の立場から〈絶対非戦論〉を唱えるなど、信仰と世界的視野に立つ愛国と政治の論陣を張った。


♦1900(明治33)年、雑誌『聖書之(の)研究』を創刊。以後、その刊行と聖書講義が一生の仕事となった。


♦内村は、〈十字架教〉と称した福音(ふくいん)信仰と〈二つのJ〉(イエスと日本 Jesus and Japan、注6)に生涯を捧げた。

 

内村にとって〈二つのJ〉は矛盾するものではなく、イエスへの真実な内面的信仰によって、近代化の中で混迷する日本人の精神的再生を図(はか)ろうとした。 


また内村は、〈武士道に接(つ)ぎ木されたるキリスト教〉を唱えたが、それは、社会正義を重んじ、利害打算を超えて真理のために闘(たたか)うという《武士道精神》に根ざす〈日本的キリスト教〉であった。


内村は、キリスト教精神のもとに、生命(いのち)と平和の尊重を訴え、他国への侵略を讃美する排他的な愛国心を批判し、福音の真理を求め、人類の平和と発展に貢献する真の愛国者として生きようとした。


内村の預言者(よげんしゃ)的思想は、日本の宗教・教育・思想・文学・社会その他多方面に広く深い影響を及ぼした。

 

その門から、藤井武ふじい・たけし、キリスト教伝道者)、塚本虎二(つかもと・とらじ、聖書翻訳者・キリスト教伝道者)、三谷隆正みたに・たかまさ、教育者・哲学者・一高教授)、黒崎幸吉(聖書学者・キリスト教伝道者)、矢内原忠雄(やないはら・ただお、社会科学者・キリスト教伝道者・東京大学総長)、南原繁なんばら しげる、政治学者・東京大学総長)ら多数の人材を輩出させた。

2.無教会主義
内村は、無教会主義のキリスト教を主張した(注7)。

 

これは、人間は神の前に立つ独立した人格であることを強調し、教会制度や儀式(洗礼・聖餐(せいさん)などの礼典)にとらわれず、各人が直接、聖書を読み、信仰の道を歩むことを重んじる(あ)り方である。


これによって、外国ミッションからの自由・独立を貫(つらぬ)くと共に、神とイエス・キリストへの真実な信仰に生きようとする思想である。

無教会の集会(聖書研究会、聖書集会)では、プロテスタンティズムの万人祭司主義に基(もと)づき、職業的聖職者を置かず、信徒によって運営される。

制度教会のような献金制度はなく、原則として経済的負担はない(注8)。

♢ ♢ ♢ ♢

(参考文献『日本大百科全書』、小学館、1985年。高等学校『倫理 用語集』山川出版社、2014年、鈴木範久『内村鑑三』岩波書店、1984年)

 

    

1 森有礼暗殺事件

不敬事件の2年前、1889(明治22)年2月11日、大日本帝国憲法発布式典に参加しようとした文部大臣・森有礼(もり・ありのり)は、キリスト信徒であると(うわさ)されていたという理由で、国粋(こくすい)主義者・西野文太郎に短刀で脇腹(わきばら)を刺され、翌日死亡した。享年43だった。

 

その噂が出たのは、進歩主義者であった森がかつてキリスト教に好意を寄せたことがあったからである。

 

内村鑑三不敬事件は、このような時代背景の中で起こった。

(注1の参考文献:政池仁著『内村鑑三伝 再増補改訂新版』教文館、1977年、179項、Wikipedia)

        
2
 流感
1890(明治23)年から翌91年にかけて、感染症の世界的な大流行(パンデミック)が発生し、日本にも波及した。

この流行は、当時「流行性感冒(かんぼう)」や「流感(りゅうかん)」と呼ばれた。

 

このパンデミックの正体(病原体)は、当時の記録や疫学的な分析から、今日われわれが「新型インフルエンザ」と呼ぶものであった可能性が大きい。

注3 内村鑑三不敬事件
この「事件」について、内村鑑三研究の第一人者である鈴木範久
(のりひさ)氏(立教大学名誉教授)は、次のように述べている。

「鑑三個人のうえのみならず、本事件は日本近代の歴史からみても、はなはだ大きな意味をもつ事件である。


大日本帝国憲法において「神聖侵(おか)すべからず」とされた天皇に対して、一個人が、現世をこえる普遍的存在(=聖書の神)を根拠に、その神聖不可侵性を否定する行動をとったのだ。


鑑三は、それがために学校を追われることになったとはいえ、人間を絶対視し、不可侵(ふかしん)的存在とすることに「否(ノー)」のありうることを世〔の人々〕に示した

 

彼は、この世的な地上〔世界〕のものを、すべて相対化する(=絶対化しない)思想のあることを〔世に〕顕(あらわ)したといえる。

 

また、たった一人の人間が、迷いながらではあるものの、なによりも良心に忠実な行動に出たことは〔長く〕記憶されるだろう

(鈴木範久著『内村鑑三』岩波新書、1984年、58~59項)

さらに、内村晩年の弟子だった故・関根正雄(1912 - 2000、旧約聖書学者、キリスト教伝道者)は、不敬事件の意義を次のように評価している(『無教会キリスト教』弘文堂)。


歴史的に見れば、〕不敬事件における礼拝拒否の一瞬間こそ、古き封建的日本とキリスト教によって培(つちか)われた新しき近代の日本がぶつかった〔、すなわち新時代の黎明(れいめい)を告げる〕記念すべき瞬間であった

(若松英輔著『内村鑑三 悲しみの使』岩波書店、2018年、73項〔 〕内、下線は補足)

注4 困窮生活

後年、内村は、「自分は人生で三度、餓死を覚悟したことがある」と述懐している。

5『基督信徒のなぐさめ』
『基督信徒のなぐさめ』は、
次の6章から成る。


第1章 愛する者の失(う)せし時
第2章 国人
(くにびと)に捨てられし時
第3章 キリスト教会に捨てられし時
第4章 事業に失敗せし時
第5章 貧
(ひん)に迫りし時
第6章 不治の病
(やまい)に罹(かか)りし時

 

序文の中で内村は、本書は「著者の自伝にあらず」と述べてはいるものの、いずれも「不敬事件」によってもたらされた著者自身の惨憺(さんたん)たる体験から発した声と言えよう(鈴木著『内村鑑三』、65項参照)。

また、内村の弟子である矢内原忠雄は次のように書いている。

「この、一切の苦難を通して〔内村〕先生は神に対する従順を学んだのです。

神の公敵に対しては一人善(よ)く世界に抗(こう)する戦士であった先生は、自己を苦しめるものに対しては、全く無抵抗の姿勢をとりました。


この苦難に対して抗(あらが)わず、神に対して従順な先生のたましいに、神の真理は啓示され、信仰(=神への信頼)による慰めは宿ったのです。
 

先生の信仰は、書物を読んで作り上げた〔頭の中の〕観念ではありません。それは苦難の〔溶鉱〕炉の中で精錬された信仰であるがゆえに、苦難の中にある〔多くの〕人々を慰め得る力があったのです
(矢内原忠雄著『続 余
の尊敬する人物』岩波新書、1949年、「内村鑑三」187項より現代語による抜粋。( )、〔 〕内、下線は補足・敷衍)

不敬事件をめぐる一連の出来事は、その後の内村の信仰と思想に大きな影響を及ぼしたにちがいないと考えられる。

二つの

以下、矢内原著『続 余の尊敬する人物』から引用する。

キリスト教の信仰によって日本を愛した愛国者、これが内村鑑三の姿であります。
内村先生は言いました。


「私どもにとりまして、愛すべき名としては、天上天下にだだ二つあるのみであります。その一つはイエスでありまして、もう一つは日本であります。

 

これを英語で申しますと、その第一は Jesus でありまして、その第二は Japan であります。二つともJの字で始まっておりますから、私はこれを Tow J’s すなわち〈二つのJ〉の字と申します


内村鑑三を記念する者は〈二つのJ〉において先生を記念すべきであります。すなわち第一に、日本を愛する愛国〔の〕心をもたねばなりません。第二に、イエスを信ずる信仰を学ばねばなりません。


太平洋戦争〕敗戦に打ちひしがれた日本は、今日、内村鑑三を必要とします。戦争の犠牲となって悲嘆の谷を歩む多くの国民が慰めを得るために、敗戦〔国〕日本が正義と平和の国として復興するために世界が恒久的平和を確立するために、しかり、〈宇宙の完成〉のために、われらは内村鑑三の信仰を必要とするのです。・・・


日本がキリストの福音を信ずるならば、それはただ日本復興の道であるだけでなく、また世界全体の光であるということであります。内村鑑三の抱負は実にここにあったのであります。・・・


・・〔先生が召されて〕15年、〔このたびの〕敗戦により日本全土が焦土(しょうど)と化しました。古いものはなにもかも焼け落ちてしまいました。

 

しかし内村鑑三が日本のために据(す)えていった礎石(=キリストの十字架の信仰)は「試(こころ)みを経た隅(すみ)の親石」でありまして、火にも焼けず、水にも崩(くず)れない永遠の真理であります。

 

焦土と化した都から焼け土を掘ってご覧なさい。そこには日本の復興すべき礎石が、据(す)えられたままに残っているのを見出すでしょう。

 

日本は内村鑑三を必要とします。先生の信仰を要します。先生の志(こころざし)を継いで〈二つのJ〉のために生涯を捧げて戦う者を要求しているのであります
(『続 余の尊敬する人物』、「内村鑑三」187~190項より、現代語による抜粋)

無教会主義

内村の無教会主義について、矢内原は次のように述べている。

「無教会主義とは、〔端的に言えば、〕人は〔制度教会の〕教会員とならなくてもキリスト者でありうるという主張です。


制度教会の伝承によると、人は按手礼(あんしゅれい)を受けた有資格の牧師〔又は神父〕から洗礼を授(さず)かることによって正式に「教会員」となり、それによって「求道者」(=信徒見習い)から「信徒」に昇格して、キリスト者であることが公認される。


したがって、教会員でないキリスト者〔などというもの〕はありえず、「教会の外に救いなし」というのが〔制度〕教会の主張です。


これに対し、人はキリストを信じることによってキリスト者となるのであり、それ以外なんらの制度的もしくは儀式的条件を必要としない。したがって洗礼を受けることも必要ではなく、教会員になるにも及ばない、と主張するのが無教会主義であります。・・・


制度教会が伝承(=昔からのしきたり)と制度を重視するのに対し、無教会が〔神にある〕自由と生命(いのち)を重んじることは明白です。

 

内村鑑三は教会〔の〕破壊者として現れたのではなく、〔また〕教会〔の〕改革者として起ったのでもありません。彼は教会の外に立って、キリストの福音を説いたにすぎません


1901(明治34)から1902年にわたって、彼は『無教会』という月刊の小雑誌を発行しました。・・・この雑誌の発刊の趣旨を述べて、彼は次のように言っております。


『無教会』は教会の無い者の教会であります。すなわち家の無い者の宿泊施設ともいうべきものです。すなわち心霊上の養育施設や孤児院のようなものであります。

 

無教会の無の字は『ない』と読むべきものであって、『〔教会を〕無にする』(=教会を破壊する)とか、『〔教会を〕無視する』(=自らを正しとして教会を見下す)とかいう意味ではありません。

 

お金の無い者、親の無い者、家の無い者はみな、可憐(かれん)な者ではありませんか。そして世には〔さまざまな事情で〕教会の無い、無牧(むぼく)の羊が多いと思いますから、〔これらの人々のために〕ここにこの小冊子を発刊するに至ったのであります」(『内村鑑三全集 第9巻』岩波書店、71~73項、「無教会論」)。


この謙遜な、控えめな態度で世に現れた無教会に対し、教会と宣教師〔たち〕は激しい非難を浴びせました。そして、「無牧の羊」はすべて教会という制度の中に入ってこなければならないと主張しました。


これに対し、信仰はあくまでも純粋に霊魂(たましい)の問題であって制度の問題ではないことを主張し、〔制度〕教会の束縛から信徒としての個人の自由を守ったのが無教会主義でした。・・・

 

これを宗教改革史の観点から見るならば、以下のごとくであります。〕
ローマ・カトリック〔教会〕では、人はカトリック信徒でなければキリスト者と認めることは出来ないと主張しました。それに対し〔宗教改革者〕ルターは、〔神の前に〕人が義(ぎ)とされる〔すなわち、救われる〕のは、信仰のみによることを力説して、ローマ法王の教権(きょうけん)から個人を解放しました。これが、ルターの宗教改革です。・・・


ところがルター自身がまた〔、さまざまな歴史的事情によって〕プロテスタントの教会制度を作ったため、年月が経つにつれ制度が固定〔化〕して、信仰的生命を窒息させました。

 

その後、何度か教会の改革運動が起こりましたが、つねに教会という制度の殻(から)を脱することが出来ず、そのため近代プロテスタント諸教会の無力と形式化は避けることは出来ませんでした。


これに対し、内村鑑三が無教会の福音を唱えたことは、実にルター以上の大〔きな〕宗教改革であって、ルターやカルバンやウェスレーが徹底できなかった改革を徹底させたものです。

 

これによって人は、教会という制度から全く自由となり、神と信徒の間に何らの中間的権威を認めず、各人が直接、神に結合する自由人となったのです。


キリスト教の行きづまりを打破して、実社会の中にその生命力を顕現(けんげん)してゆくための原動力がここに獲得されたのです。


無教会主義による再〔度の〕宗教改革(すなわち、第二の宗教改革)は世界史的な意義をもつ事件であって、それが日本から起こったのであります。・・・

 

キリスト教に関しては、日本は内村鑑三によって独創的な貢献を世界に対して成したのであり、内村鑑三の伝えた無教会の福音が、日本国民の間に広まるならば、日本はさらに各方面にわたって独創的な寄与を世界になすことができると私は信じます。

 

戦後の〕日本が平和国家、文化国家として立つには、これ以外に道は無く、またこれによるならば立つことが出来ると思います。


内村鑑三がその70年の生涯において日本のために尽くした貢献は多方面にわたりますが、そのうち最も大きくかつ根本的なものは、無教会主義の信仰であったということが出来るでしょう
(引用文献:矢内原忠雄著『続 余の尊敬する人物』岩波新書、1949年、「内村鑑三」160~164項より、現代語による抜粋。( )、〔 〕内、下線は補足・敷衍)。

集会の維持、運営について

集会毎に事情は異なるが、現代の無教会集会では、公民館利用時や家庭集会の場合に、会場費や茶菓子代などを少額ずつ負担することがある。

 

また、国内外の慈善・環境保護・平和を守る活動等を支援するため、会場入り口に献金箱を置くなどして自発的な献金を募(つの)ることがある。

​新約聖書によれば、教会(エクレシア)のルーツは信徒の家で持たれた集会(ローマ 16:3~5、いわゆる「家の教会)であり、日本の制度教会も、西洋の教会的伝統に基づく教会堂》を中心とした在り方(これには、それなりの財政的基盤が必要)を再考すべき時に来ているのではないだろうか。

 

信徒によって運営され、《教会堂》の維持から自由な無教会集会の在り方は、高齢化・会員数減少等により会堂の維持や存続の危機に直面している地方の教会にとっても、参考になりうると考えられる(エクレシアにとって、《教会堂》という宗教施設は必須ではない)。

 

かつては教会堂》がキリスト教会の存在を地域に知らせる役割を担っていたが、SNS時代の現代では人々は、まずネットで検索し、集会を探すことが主流となっている。

次のページへ

- 013-

© 信州聖書集会 All rights reserved.

bottom of page