聖書に学ぶ 010

2021年8月15日改訂

原著:藤井 武

現代語化:タケサト・カズオ

詩篇研究

鹿が渓水を慕い喘ぐがごとく

私の詩としての詩篇42篇2~6節

〖鹿が渓水を慕い喘ぐがごとく ⑵    ⑶   ⑷     

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〔1〕

神よ、鹿が渓水(たにがわ)を慕い喘(あえ)ぐように、

わが魂もあなたを慕いあえぐ(注1~4)

(詩篇42:2)


〔1-①〕
ある時私は、暗黒の中に自分を見出した。
私はひどく怖(お)じ惑(まど)った。

私はただちに眼を上げて、彼を〔仰ぎ〕望もうとした。

ところが見よ、彼はその姿を匿(かく)されたのである。

 

私は声を上げて彼に祈った。

ところが何故(なぜ)か彼は、耳を覆(おお)って〔、私の祈りの声を〕聴いてくださらないのである。


それは私にとって、あまりに怖(おそ)ろしき経験であった。

 

彼の御顔(みかお)(あお)ぎ見ずに、誰によって私は慰められることができようか。

彼の御声(みこえ)を聴かずに、何によって私は支へられることができようか。

〔1-②〕
私のなやみに対して、人の同情は雲のごとくに集まった。私の小さき胸は感謝で満ち、かつ溢
(あふ)れた。確かに私の環境は急に、温かく美(うるわ)しきものに変化した。

 

そのことは、私にとって大きな悦(よろこ)びであるに違いなかった。

 

それにもかかわらず、すべてのこれらの得がたい福(さいわ)いにもかかわらず、私の痛みそのものは遂(つい)に癒(いや)されないのを、何としようか。

 

ああ、人の手は温かいとはいえ、あまりに無力である。

それは傷口に触れるのみであって、これをどうすこともできないのである。

〔1-③〕
私の心臓は日々、熱をもって躍
(おど)り騒ぎつつ、痛む。

 

この(た)えがたい痛みを癒すことのできる者は、誰か。この深き傷を包むことのできる者は、誰か。

 

彼のみ。ただ彼のみ。彼より外(ほか)にはない。

 

彼は現在の私にとって、絶対的〔に〕必要〔な〕者である。唯一の、〔わが〕いのちを支える者である。

 

彼の聖顔(みかお)を〔仰ぎ〕見ることができなければ、彼の御声(みこえ)を聴くことができなければ、私は恐れる。私の心臓は必ずや、遠からず破裂するであろうことを。

〔1-④〕
ああ神よ、私のたましいは今、あなたを慕
(した)って喘(あえ)ぐ。息も絶(た)え絶えに、喘ぐ。

 

ちょうど長き干(かん)ばつに悩まされた牝鹿(めじか)が、ただ渓水(たにがわ)を慕って喘ぐように(注3、4)

渓水を〕飲まなければ、〔それは〕すなわち死である。見出さなければ、すなわち滅亡である。

 

私は今、何ものによっても支えられかねている。

 

どうか、あなたの御顔(みかお)をふたたび私に仰がせてください。そうでなければ〔一体、〕どうやって、私は生きられようか。


〔2〕

わが魂(たましい)は神を、活(い)ける神を求めて渇く。

いつ、私は御前(みまえ)に出て、神の御顔(みかお)を見うるのであろう。

(詩篇42:3)

〔2-①〕
かつては私に、真理に対する渇き(渇望)があった。

自然に対する渇きがあった。

家庭(ホーム)対する渇きがあった。

(きよ)事業に対する渇きがあった(注5)

 

しかしながら今、私は、しばらくそれらのものを忘れる。

 

今、私のたましいが渇き求めるものは、ただ一つ。真(まこと)、ただ一つである。

 

それは、〕神である、活ける神である。

〔2-②〕
活きて〔いて、〕私と相
(あい)(いだ)くことのできる者

その(ふとこ)ろの中に、私が飛び込むことのできる者

私の痛みを説明なしに、ことごとく理解できる者

大きな温かき手で、私の手を固(かた)く握ることのできる者

真実(ほんとう)に、私と共に泣くことのできる者そして、私の涙を拭(ぬぐ)うことのできる者


ああ、このような人格〔的な独一〕者を私は今、切に渇き慕うのである。

 

それは、〕哲学者の〔考え出した〕抽象的な「神」ではない。神学者の〔、教義の鎧(よろい)をまとった〕冷たき「神」ではない。

 

悩めるたましい〔にとって〕の父なる神愛なる(い)ける神

― 彼の顔を私は今、まの当たりに仰ぎ見たくて堪(た)まらないのである。彼の言葉を私は今、鮮(あざや)やか聴きたくて堪まらないのである。

〔2-③〕
ところが彼はその背を私に向け、私より大分(だいぶん)、遠ざかったではないか。

 

彼に支えていただきたいと願って寄りかかった私の身は、宙に浮いてよろめく。

 

彼に(なぐさ)めていただきたいと願って告白した私の歎(なげ)きの声は、見よ、空(むな)しく虚空(きょくう)の中に消え去るのである。

〔2-④〕


わが神、わが神、
なにゆえ、私を見棄
(す)てられたのですか。


なにゆえ、遠く離れて私を救わず、わが嘆(なげ)きの声を聴かれないのですか。


ああ、わが神よ、昼、私が呼んでもあなたは応(こた)えず、
夜もまた、私は平安を得ない
」〔詩篇22:2,3〕

いつ私は神の前に出て、顔を合わせて彼と見つめ合い、心ゆくまで彼に慰めていただくことができるのだろうか。

 

いつ私はふたたび、彼と相抱(いだ)き、微動(びどう)さえしないほどに確(かた)く、彼に支えていただくことができるのだろうか。

​〔つづく〕

♢ ♢ ♢ ♢

(原著:藤井武『旧約と新約』第30号、1922年11月。『藤井武全集 第4巻 詩篇研究』岩波書店、1971〔昭和46〕年9月、272~274項を現代語化。( )、〔 〕内、下線は補足

文中の引用聖句(現代語)について

原文で引用された文語訳(大正訳、1917年)に加え、口語訳(1954年)、新共同訳(1987年)、関根正雄訳(1997年)、岩波訳(2005年)、月本昭男訳(2006年)、聖書協会共同訳(2018年)の各聖書を参照した。

​注1 詩篇42篇の歴史的背景
この詩は、自分の悩みを切々たる調子で述べる機会を得た人の筆(ふで)になる。・・


作者はエルサレムとその神殿-彼はその要職にあったのかも知れない(4:25)-から遠く離れ、ヨルダン川の源流がヘルモン連山の南斜面で轟々(ごうごう)たる急流になって谷に落ちるところに(42:7~8)、つまり後のフィリポ・カイザリアの地に、おそらく追放の身となって過ごしているにちがいない。


彼は奪われてしまった幸福(さいわい)、つまり神と親しく交わっていた時のことを慕(した)いこがれている。かつて彼は、神の家で、神に身をまかせることが許されていたのである。

 

しかし今や、敵の圧迫と嘲笑は彼に、神に捨てられた者の悲惨を余すところなく気付かせ、また神を慕う悲哀を自覚させる。

 

彼は神の前に肺腑(はいふ)をつく嘆(なげ)きの声をあげて、魂の傷をあからさまにぶちまける

 

そして、見失われようとする(おのれ)の神を求めて、他を顧(かえり)みることなく一途に苦闘するのである。
(参考文献:塩谷ゆたか訳、A・ヴァイザー著『ATD旧約聖書註解13 詩篇 中 42~89篇』ATD旧約聖書註解刊行会、1985年。5項)

​注2 渓水(たにがわ)

​ここでは、「涸(かれ)れ谷」(聖書協会共同訳)つまり乾期(かんき)に干(ひ)上がった「川床」に残った、わずかな水のこと

​注3 鹿が渓水を慕い喘

夏には枯れる川床に、牝鹿(めじか)が水を探し求めるさま。

(月本昭男『詩篇の思想と信仰 Ⅱ』新教出版社、2006年、226項、訳注

動詞が女性形のため、七十人訳では「鹿」を「牝鹿」と読む。

(岩波『旧約聖書 詩篇』岩波書店、1998年、113項の注12)

注4 詩篇42:2の註解
神を慕う心の悲哀がこの詩全篇を貫いているが、詩人はその全貌を、たぐいなく美しい傑作(けっさく)の画(え)に作り上げている。

 

すなわち彼の魂は、夏の炎天下に干(ひ)上がった喉(のど)をうるおそうと、乾いた河床(かわどこ)で首を突き出し、空しく水を求める牝鹿(めじか)に似ている。


魂は生ける神を渇望し、祈りの中で身を伸ばして神に近づこうとする。神がおられなければ、彼の魂は衰え果てるほかない。
(参考文献:上掲『ATD旧約聖書註解13 詩篇 中』、5項)

​注5 (きよ)き事業

独立伝道者として、藤井が心血を注いだ聖書研究と伝道を指すと考えられる。

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