イエスの純福音・無教会の精髄・第二の宗教改革へ
― まごころで聖書を読む。そして、混迷の時代を神への信頼と希望をもって、力強く前進する ―
We read the Bible with all our hearts. And we move forward powerfully in this era of turmoil with trust and hope in God.
■上の「ネットエクレシア信州」タッチでホーム画面へ移動
Move to home screen by touching “NET EKKLESIA” above.
最終更新日:2024年12月7日
■サイト利用法はホーム下部に記載
〔1〕
神よ、鹿が渓水(たにがわ)を慕い喘(あえ)ぐように、
わが魂もあなたを慕いあえぐ。(注1~4)
(詩篇42:2)
〔1-①〕
ある時私は、暗黒の中に自分を見出した。私はひどく怖(お)じ惑(まど)った。
私はただちに眼を上げて、彼を〔仰ぎ〕望もうとした。
ところが見よ、彼はその姿を匿(かく)されたのである。
私は声を上げて彼に祈った。
ところが何故(なぜ)か彼は、耳を覆(おお)って〔、私の祈りの声を〕聴いてくださらないのである。
それは私にとって、あまりに怖(おそ)ろしき経験であった。
彼の御顔(みかお)仰(あお)ぎ見ずに、誰によって私は慰められようか。
彼の御声(みこえ)を聴かずに、何によって私は支えられようか。
〔1-②〕
私のなやみに対して、人の同情は雲のごとくに集まった。私の小さき胸は感謝で満ち、かつ溢(あふ)れた。確かに私の環境は急に、温かく美(うるわ)しきものに変化した。
そのことは、私にとって大きな悦(よろこ)びであるに違いなかった。
それにもかかわらず、すべてのこれらの得がたい福(さいわ)いにもかかわらず、私の痛みそのものは遂(つい)に癒(いや)されないのを、何としようか。
ああ、人の手は温かいとはいえ、あまりに無力である。
それは傷口に触れるのみであって、これをどうすこともできないのである。
〔1-③〕
私の心臓は日々、熱をもって躍(おど)り騒ぎつつ、痛む。
この堪(た)えがたい痛みを癒すことのできる者は、誰か。この深き傷を包むことのできる者は、誰か。
彼のみ。ただ彼のみ。彼より外(ほか)にはない。
彼は現在の私にとって、絶対的〔に〕必要〔な〕者である。唯一の、〔わが〕いのちを支える者である。
彼の聖顔(みかお)を〔仰ぎ〕見ることができなければ、彼の御声(みこえ)を聴くことができなければ、私は恐れる。私の心臓は必ずや、遠からず破裂するであろうことを。
〔1-④〕
ああ神よ、私のたましいは今、あなたを慕(した)って喘(あえ)ぐ。息も絶(た)え絶えに、喘ぐ。
ちょうど長き干(かん)ばつに悩まされた牝鹿(めじか)が、ただ渓水(たにがわ)を慕って喘ぐように(注3、4)。
〔渓水を〕飲まなければ、すなわち死である。見出さなければ、すなわち滅亡である。
私は今、何ものによっても支えられかねている。
どうか、あなたの御顔(みかお)をふたたび私に仰がせてください。そうでなければ〔一体、〕どうやって、私は生きられようか。
〔2〕
わが魂(たましい)は神を、活(い)ける神を求めて渇く。
いつ、私は御前(みまえ)に出て、神の御顔(みかお)を見うるのであろう。
(詩篇42:3)
〔2-①〕
かつては私に、真理に対する渇き(渇望)があった。
自然に対する渇きがあった。
家庭(ホーム)に対する渇きがあった。
聖(きよ)き事業に対する渇きがあった(注5)。
しかしながら今、私は、しばらくそれらのものを忘れる。
今、わがたましいの渇き求めるものは、ただ一つ。真(まこと)に、ただ一つである。
〔それは、〕神である、活ける神である。
〔2-②〕
活きて〔いて、〕私と相(あい)抱(いだ)くことのできる者。
その懐(ふとこ)ろの中に、私が飛び込むことのできる者。
私の痛みを説明なしに、ことごとく理解できる者。
大きな温かき手で、私の手を固(かた)く握ることのできる者。
真実(ほんとう)に、私と共に泣くことのできる者。そして、私の涙を拭(ぬぐ)うことのできる者。
ああ、このような人格〔的な独一〕者を私は今、切に渇き慕うのである。
〔それは、〕哲学者の〔考え出した〕抽象的な「神」ではない。神学者の〔、教義の鎧(よろい)をまとった〕冷たき「神」ではない。
悩めるたましい〔にとって〕の父なる神、愛なる活(い)ける神
― 彼の顔を私は今、まの当たりに仰ぎ見たくて堪(た)まらないのである。彼の言葉を私は今、鮮(あざや)やか聴きたくて堪まらないのである。
〔2-③〕
ところが彼はその背を私に向け、私より大分(だいぶん)、遠ざかったではないか。
彼に支えていただくことを願って寄りかかった私の身は、宙に浮いてよろめく。
彼に慰(なぐさ)めていただくことを願って告白した私の歎(なげ)きの声は、見よ、空(むな)しく虚空(きょくう)の中に消え去るのである。
〔2-④〕
「わが神、わが神、
なにゆえ、私を見棄(す)てられたのですか。
なにゆえ、遠く離れて私を救わず、わが嘆(なげ)きの声を聴かれないのですか。
ああ、わが神よ、昼、私が呼んでもあなたは応(こた)えず、
夜もまた、私は平安を得ない」〔詩篇22:2,3〕。
いつ私は神の前に出て、顔を合わせて彼と見つめ合い、心ゆくまで彼に慰めていただくことができるのだろうか。
いつ私はふたたび、彼と相抱(いだ)き、微動(びどう)さえしないほどに確(かた)く、彼に支えていただくことができるのだろうか。
〔つづく〕
♢ ♢ ♢ ♢
(原著:藤井武『旧約と新約』第30号、1922年11月。『藤井武全集 第4巻 詩篇研究』岩波書店、1971〔昭和46〕年9月、272~274項を現代語化。( )、〔 〕内、下線は補足)
*文中の引用聖句(現代語)について
原文で引用された文語訳(大正訳、1917年)に加え、口語訳(1954年)、新共同訳(1987年)、関根正雄訳(1997年)、岩波訳(2005年)、月本昭男訳(2006年)、聖書協会共同訳(2018年)の各聖書を参照した。
注1 詩篇42篇の歴史的背景
この詩は、自分の悩みを切々たる調子で述べる機会を得た人の筆(ふで)になる。・・
作者はエルサレムとその神殿-彼はその要職にあったのかも知れない(4:25)-から遠く離れ、ヨルダン川の源流がヘルモン連山の南斜面で轟々(ごうごう)たる急流になって谷に落ちるところに(42:7~8)、つまり後のフィリポ・カイザリアの地に、おそらく追放の身となって過ごしているにちがいない。
彼は奪われてしまった幸福(さいわい)、つまり神と親しく交わっていた時のことを慕(した)いこがれている。かつて彼は、神の家で、神に身をまかせることが許されていたのである。
しかし今や、敵の圧迫と嘲笑は彼に、神に捨てられた者の悲惨を余すところなく気付かせ、また神を慕う悲哀を自覚させる。
彼は神の前に肺腑(はいふ)をつく嘆(なげ)きの声をあげて、魂の傷をあからさまにぶちまける。
そして、見失われようとする己(おのれ)の神を求めて、他を顧(かえり)みることなく一途に苦闘するのである。
(参考文献:塩谷ゆたか訳、A・ヴァイザー著『ATD旧約聖書註解13 詩篇 中 42~89篇』ATD旧約聖書註解刊行会、1985年。5項)
注2 渓水(たにがわ)
ここでは、「涸(かれ)れ谷」(聖書協会共同訳)つまり乾期(かんき)に干(ひ)上がった「川床」に残った、わずかな水のこと。
注3 鹿が渓水を慕い喘ぐ
夏には枯れる川床に、牝鹿(めじか)が水を探し求めるさま。
(月本昭男『詩篇の思想と信仰 Ⅱ』新教出版社、2006年、226項、訳注)
動詞が女性形のため、七十人訳では「鹿」を「牝鹿」と読む。
(岩波『旧約聖書 詩篇』岩波書店、1998年、113項の注12)
注4 詩篇42:2の註解
神を慕う心の悲哀がこの詩全篇を貫いているが、詩人はその全貌を、たぐいなく美しい傑作(けっさく)の画(え)に作り上げている。
すなわち彼の魂は、夏の炎天下に干(ひ)上がった喉(のど)をうるおそうと、乾いた河床(かわどこ)で首を突き出し、空しく水を求める牝鹿(めじか)に似ている。
魂は生ける神を渇望し、祈りの中で身を伸ばして神に近づこうとする。神がおられなければ、彼の魂は衰え果てるほかない。
(参考文献:上掲『ATD旧約聖書註解13 詩篇 中』、5項)
注5 聖(きよ)き事業
独立伝道者として、藤井が心血を注いだ聖書研究と伝道を指すと考えられる。
- 010-