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<信仰入門

キリスト教入門 008

2024年5月8日改訂

原著:内村鑑三

現代語化:さかまき・たかお

True Holy Catholic Church(注4)

〖真の聖なる公同教会〗

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* * * *

我は聖なる公同の教会(聖公会)を信ず

これは〔、すべてのキリスト者が知り、また唱えている〕《使徒信条》の一節である。

この一節について、ジョン・ラスキンは〔次のように〕述べている(注1)。

「真(まこと)教会は、〔助けを必要としている〕他者に、ひとりの人が援助の手を差し伸べているところにある。

これがかつて存在し、またこれから存在するであろう唯一の聖公(せいこうかい)、また母〔なる〕教会であると。

まことにその通りである。

愛が行われるところには、〔たとえ〕どこであろうとも〔、そこに神の喜ばれる〕教会がある(注3)。

 

しかし愛が行われないところには、〔たとえそこに立派な〕教会堂があろうとも、〔荘厳な〕儀式があろうとも、〔偉い〕聖職者がいようとも、〔あるいは雄弁な説教があろうとも、大勢の〕信徒が集まっていようとも、〔そこには〕教会はない

ましてキリストの教会(エクレシア)が〔そこに〕あるはずもない〔。

 

- 愛がなければ、無に等しい(コリントⅠ13:2)-

そこで愛が行われているかどうか

これこそが、聖なる公同教会(True Holy Catholic Church)の《標識》である(注2)。

このことをわれらは決して、忘れてはならない〕。

 

♢ ♢ ♢ ♢

(鈴木俊郎ら編集『内村鑑三全集 第16巻』岩波書店、1982〔昭和57〕年1月、420項を現代語化。初出:内村鑑三『聖書之研究』111号、1909〔明治42〕年7月10日。( )、〔 〕内、下線は補足)

英訳
English translation

True Holy Catholic Church

1909, Kanzo Uchimura

"I believe in a holy and catholic church"
This is a passage from the Apostles' Creed 
[, which all Christians know and recite].

Regarding this passage, John Ruskin says (note 1):


The true Church consists of one person extending a helping hand to another [in need]. This is the only Episcopal Church and mother Church that ever existed and will ever exist."

That's exactly right.

Wherever love is practiced, there is a church [where God is pleased] (note 3).

But where love is not practiced, no matter whether there is a [splendid] church building, or [solemn] ceremonies, or a [great] clergyperson [, or eloquent sermons], There is no church, even though [a large number of] believers are gathered there.
Moreover, there can be no church of Christ (Ekklesia) there.

[ If I do not have love, I am nothing" (1 Corinthians 13:2)


Is there love going on there? This is the sign of the True Holy Catholic Church (Note 2).

We must never forget this.]

is supplementary information

1 ジョン・ラスキン John Ruskin

イギリスの社会改革提唱者、美術評論家。1818年2月-1900年1月。

オックスフォードのクライスト・チャーチに学び、卒業後、「近代画家」(1843)で一躍、美術評論家としての地位を固めた。

​1870年、オックスフォードに新設された美学講座の担当者となゴシック建築に対する瞠目からカトリシズムを再評価するようになったが、死ぬまで英国教会にとどまった。

FLライトといった建築家だけでなく、ガンディー、アンリ・ベルクソン、マルセル・プルーストらにも影響を及ぼした。

(出典:加藤常昭、荒井献ら編集『キリスト教人名事典』日本基督教団出版局、1986年、1,760項)

注2 まことの教会の標識-説教と儀式か、それとも愛か-

Sign of the true Church: preaching and ritual, or love?


プロテスタント諸教会は、1530年のルター派の信仰告白(アウグスブルク信仰告白・第7条)に従い、教会を「福音を説教し、聖礼典(洗礼、聖餐)を与えるところ」と規定している。


そして、「これ(=説教と聖礼典)をするかどうか、これを純粋に行うかどうかが、教会であるかないかのしるし(標識)にさえなる」。これを行わないものは、「人間的な理念や活動がどれほどすばらしくても、教会ではないと知らなければなるまい」としている(徳善義和『アウグスブルク信仰告白の解説』聖文社、1979年、70項)。

しかし歴史的事実として、イエスも使徒パウロもそのようなことは、ひと言も言っていない。


一方、内村は、そこに愛があるかどうか、これこそが教会であるかないかの標識であると断言する。

 

そこに説教があろうが、聖礼典(儀礼)があろうが、キリストの愛がないならば、そこにはキリストの教会(エクレシア)はない、と説く


今、世界各地で戦争が起き、多くの小さき者、弱き者が日々、命を奪われ、犠牲となっている。

説教と聖礼典に励みつつ、ジェノサイド(genocide、集団殺戮)と化しつつあるパレスチナでの戦争を正当化し、さらには戦争をあおる「キリスト教会」(米国福音派教会等)の現状を見るにつけ、「まことの教会(エクレシア)とは、何か」、「教会は、いかにあるべきか」との問いが鋭く胸に迫り来る。

エクレシア《標識》は一体、何か。

命を救い、最後まで残るものは、説教(言葉)と聖礼典(儀式)か。それとも愛か?

(コリントⅠ13:1~13 参照)

Note 2

Sign of the true Church: preaching and ritual, or love?

According to the Lutheran Confession of Faith of 1530 (Article 7 of the Augsburg Confession), Protestant churches stipulate that "the church is a place where the gospel is preached and the sacraments (baptism, communion) are given.''. 

​And, "Whether or not this (preaching and sacrament) is done, and whether or not it is done in a pure manner, becomes a sign of whether or not it is a church.'' "We must know that those who do not do this, no matter how wonderful their human ideals and activities, are not churches.'' (Yoshikazu Tokuzen, Commentary on the Augsburg Confession of Faith, Seibunsha Publishing, 1979, page 70).


However, as a historical fact, neither Jesus nor the apostle Paul said anything like that.

On the other hand, Kanzo Uchimura asserts that whether there is love or not is the sign of whether or not it is a church.


He preaches that no matter whether there is a sermon or a sacrament (ritual), if there is no love of Christ, there is no church of Christ (Ekklesia).

Wars are currently occurring all over the world, and many small and weak people are losing their lives and becoming sacrifices every day.

And as we look at the current state of "Christian churches" (such as American evangelical churches) that justify the war in Palestine, which is turning into genocide, and incite the war while devoting themselves to preaching and sacraments, the questions "What is the true church (Ekklesia)?'' and "How should the church be?'' are keenly felt in our hearts.

​What on earth is Ekklesia's "Sign"?
What saves lives and abides until the end is the sermon (words) and the sacraments (rituals). Or is it love?
(See 1 Corinthians 13:1-13.)

3 エキュメニカルの精神と内村鑑三 Ecumenical spirit and Kanzo Uchimura

①エキュメニズム、エキュメニカル運動 Ecumenism, Ecumenical movement

エキュメニズム(Ecumenism)またはエキュメニカル運動(Ecumenical movement)は、それぞれ「世界教会主義」、「世界教会一致運動」と訳されている。


これらは、分裂したキリスト教の諸教派を一致させようとする運動を指す言葉で、より幅広く、キリスト教を含む諸宗教間の対話と協力を目指す運動を指すこともある。

エキュメニズムという用語は、oikoumenē(オイコウメネー)というギリシャ語に由来し、これは〈家〉を意味する oikos(オイコス)から派生した言葉である。

​1910年のエジンバラ世界宣教会議を源流とし、プロテスタントと正教会が加わる世界教会協議会(WCC)が長年、この運動に取り組み、カトリック教会も第2バチカン公会議(1962-1965年)を経て、これに呼応している。

この理念に基(もと)づき、キリスト教の超党派による対話と和解、一致を目指して、教派を超えた信徒レベルの対話や交流、また高位聖職者・教役者を交えた教派間の対話まで様々な活動が、世界各地で行われている。

一方、現状ではエキュメニカル運動は決して一枚岩の運動とは言えず、21世紀に入り様々な見解の差異が拡大・顕在化(けんざいか)し、部分的には停滞、さらには「エキュメニズムの失敗」とまで評される局面も出てきている。

実際、カトリック教会は、プロテスタントとの対話を促進する一方、「プロテスタントは〔使徒ペテロ以来の〕《使徒継承》性を持たず、カトリックの聖体(聖餐式)を受けることができない」としており、また教皇ベネディクト16世(在位:2005年4月-2013年2月)は、「プロテスタントは『教会』と呼ぶことはできない」とした。 


今日のエキュメニカル運動の中には、こうした動きを好感する《保守派》と、エキュメニカル運動に逆行するものと捉える《リベラル派》が存在している、とされる。

②「真の聖なる公同教会」と全人類教会主義 “True Holy Catholic Church” and Ecumenism of All Humanity


内村は晩年に至り、《全人類教会主義》という捉え方を提唱している。

 

そもそも、世界と人類をキリスト教世界・キリスト教徒と非キリスト教世界・非キリスト教徒と分けることは、誤りなのではないか。

むしろ、人類全体を一つの教会、つまり《全人類教会》と見るのが本当ではないか

真の教会を探究し続けた内村に、真理の新たな把握が啓示されたのである。


宗教・宗派の別、人種・民族の別、男女の別、思想・信条(無神論者を含め)の別、これらの差異にかかわらず、神は全人類一人ひとりをそのまま、ご自身の家族として受け容(い)れてくださっている。

全人類一人ひとりが、《全人類教会》のなくてはならぬ大切な構成員である-。


この受けとめによって、あらゆる差別が克服され、共に生きる基盤が与えられるための、確実な一歩が踏み出される。


真の聖なる公同教会」(1909年)の一文が示すように、あらゆる差異を踏み越えて、愛のあるところに〈教会〉の存在を認める新たな視点は、《全人類教会主義》への重要な出発点となるであろう。

 

真の聖なる公同教会」と《全人類教会主義》。

 

この常識的で、寛(ひろ)やか視点こそが、教会一致(エキュメニカル)のみならず人類共同体形成の重要な基礎となるのではないだろうか。

(注2の参考文献:大貫隆ら編集『岩波 キリスト教辞典』岩波書店、2002年、139項。Wikipedia「エキュメニズム」)

注4 Catholic(カトリック)


Catholic(カトリック)は、ギリシア語のカトリコス katholikos(καθολικος)に由来する言葉(英語)で、もともと「普遍(的な)、包括(的な)、公同(の)」という意味である。

この記事の表題英訳に用いた「Catholic」も、この意味で用いている。

 

一方、歴史的には、ニケーア公会議(紀元325年)以降、アタナシウス派が自らを「カトリック」と称し、1054年の〈東方正教会〉の分離に際し、〈西方教会〉が普遍・正統派を主張して「カトリック」と称した

 

以上のような歴史的経過から、キリスト教教派の〈ローマ・カトリック教会〉を指す用例も多いが、カトリック」は教派名にとどまらない概念を指し示す普通名詞・形容詞であるため、文脈によっては普通名詞・形容詞として用いられることに注意が必要である。

 
キリスト教用語として、この言葉は以下のような様々な意味を持つ。


⑴地方のキリスト教会と区別された、「普遍的教会」の意味。


⑵「異端的」ないし「シスマ(分離)的」と区別された「正統的」(orthodox)の意味。


1054年とされる東西教会の「シスマ(分裂)以前の古代教会」の意味。

分裂以後、西方教会は「カトリック」、東方教会は「オーソドックス」(正教会)と自称している。


⑷宗教改革以後は、ローマ・カトリック教会が排他的に「カトリック」だと自称するようになった。


一般に「カトリック」の言葉は、使徒ペテロ以来の信仰と実践の歴史的・連続的伝統を保持すると主張するキリスト教徒について用いられ、この点で、究極的な基準を教会の歴史的伝統ではなく、16世紀の宗教改革の原則によって解釈された聖書のうちに見出そうとするプロテスタントと対比される。

(参考文献:山岸和雄編集代表『新グローバル英和辞典』三省堂、2001年、298項、全国歴史教育研究協議会編『改訂版 世界史用語集』山川出版社、2022年、87項、大貫隆ら編『岩波 キリスト教辞典』岩波書店、2002年、2019~220項、Wikipedia「カトリック」)

5 原文 Original text

真の聖公会

内村鑑三

余は聖なる公会あるを信ず
とは使徒信経の一条である、之
(これ)に対してジョン・ラスキンは曰(い)ふた、
 真(まこと)の教会は一人の人が援助の手を伸ばして他の人に接する所にあり、是(こ)れ曾(かつ)て有りし所の、又曾てあらん所の唯一の聖公会又母教会なり
と、真に爾
(そ)うである、教会は愛の行はるゝ所には何処(どこ)にでもある、而(しか)して愛の行はれざる所には教堂があらふが、儀式があらふが、聖職が居(お)ろうふが、信徒が集(つど)らふが教会はない、況(いわ)んやキリストの教会をや。

明治42年7月10日、『聖書之研究』111号「寄書」。『内村鑑三全集 第16巻』岩波書店、420項より引用

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