12月<内村鑑三「一日一生」現代語訳

 

12月1日~12月5日

(2018年2月1日更新)

 

このページは、山本泰次郎、武藤陽一編『 一日一生』(教文館、1964年)を現代語化したものです。

【12月1日】ある人が神の愛に感動し(愛の波動)

愛する者たち、互いに愛しましょう。

愛は神から出るもので、愛する者は皆、神から生まれ、神を知っているからです。

愛することのない者は神を知りません。神は愛だからです。

(ヨハネの手紙 一 4:7、8)

 

ある人が神の愛に感動し、この愛に励まされて、わたしを愛した。

わたしはその人の愛に感動し、この愛に励まされて、ある他(ほか)の人を愛した。

彼はまた、わたしの愛に感動し、この愛に励まされて、さらにある他の人を愛した。

愛は波及する。〔愛は〕延(の)びて地の果てに達し、世(歴史)の終わりに〔まで〕至る(注1)

 

さあ、わたしも直(ただ)ちに神に触れ、神の愛をわが心に受けて、地上に愛の波動を起こそう

(原著「愛の波動」1905年、信7・176)

 

 

§ § § §

注1 「愛の波動」と「バタフライ効果」

内村の「愛の波動」の考え方は、現代物理学や現代数学のカオス理論における「バタフライ効果」と興味深い類比(るいひ、アナロギア)の関係にあると考えられる。

 

バタフライ効果とは、初期条件のわずかな差が、その結果に大きな違いを生むことを表現する言葉で、「世界のどこかで1匹の蝶(ちょう、バタフライ)が羽ばたくと、地球の反対側の気象に影響を与える」という気象学の理論を、カオス理論に応用したものである。

 

物理学的に表現すると、バタフライ効果とは、「力学系の状態にわずかな変化を与えると、系のその後(未来)の状態に大きな影響を与える、つまり、そのわずかな変化がなかった場合とは、その後の系の状態が大きく異なってしまう」という現象のことである。

 

バタフライ効果」の理論から、社会学的には、どんな小さな行動も未来に影響を与えることができる、つまり、誰もが未来を変える力を持つ、と言うことができる(ニューヨーク州立大学名誉教授・元国際社会学会会長 I.ウォーラーステイン『朝日新聞』2016年11月11日朝刊、インタビュー記事「未来を変える力、誰もが持つ。諦めず前向いて」より)。

 

引用者は、内村の言葉を次のように受けとめる。

 

  ☆

神の愛は、私たちの中に愛を呼び覚(さ)まし、その愛は愛の波動となって地の果てに達する。

私たちのどんな小さな愛も、決して虚空(きょくう)に消えることはない。

 

ほんの小さな愛から始まった愛の波動も、神に育(はぐく)まれて世界歴史の終わりにまで至り、《神の国》実現の礎石(そせき)として用いられるであろう。

 

それゆえ、兄弟姉妹よ。神の愛を受けて、今日もまた、愛の波動を起こそうではないか。

☆  ☆

 

内村の「愛の波動」は、何と慰め励ましに満ちた教えだろうか。

 

(参考文献:『朝日新聞』2016年11月11日朝刊、Wikipedia「バタフライ効果」)

♢ ♢ ♢ ♢

【12月2日】境遇に強(し)いられて(成功の秘訣)

わがしもべイスラエルよ、わたしの選んだヤコブ、わが友アブラハムの子孫よ。

わたしは地の果てから、あなたを連れて来、地のすみずみから、あなたを召して、あなたに言った。

あなたは、わたしの僕、わたしはあなたを選んで捨てなかった」と。

 

恐れてはならない、わたしはあなたと共にいる。

驚いてはならない、わたしはあなたの神である。

わたしはあなたを強くし、あなたを助け、わが勝利の右の手をもって、あなたを支える。 (イザヤ 41:8~10 口語訳)

 

境遇に強(し)いられて事を行えば、その事は必ず成功する。

だが、〕自(みずか)ら境遇を作って事を行えば、その事は〔浅慮と我執(がしゅう)のため、〕必ず失敗に終わる。

 

自ら求めないのに〔、思わぬ時、思わぬ形でやって〕来る境遇は、〔実は、最も時に適(かな)った〕神の声である。

だが、〕自ら計画(たくら)んで作った境遇は、自分〔一個の欲心〕の声〔にすぎないの〕である。

 

そして、 〕神意(みこころ)は必ず成就(じょうじゅ)し、〔近視眼的な〕我意(がい)は必ず失敗する。

よって、〕成功の秘訣は、神に強いられるのでなければ、起ち上がらないことにある。

 

(原著「成功の秘訣」1909年、信7・320)

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【12月3日】キリスト教の存在理由は(実力の宗教)

わたしたちは、十字架につけられたキリストを宣(の)べ伝える。

このキリストは、ユダヤ人には躓(つまず)かせるもの、異邦人(いほうじん)には愚かなものであるが、召(め)された者自身にとっては、ユダヤ人にもギリシャ人にも、神の力、神の知恵たるキリストなのである。

(コリント一 1:23~24。口語訳)

 

キリスト教の存在理由は、ただ〔世界の三大宗教として〕存在〔している〕と言うだけでは不十分です。

 

(まこと)〕キリスト教の〔生命〕力と限りない生長の理由は、その言葉(教理)にあるのではなく、その能力(ちから)にあるのです。

 

存在〕は、議論〔の問題〕ではなく実力〔の問題〕です。〔また、〕人生〔の中心問題〕は、理屈ではなく、実行〔力の有無〕です。

それゆえ、神を人類に紹介して人類を救う〔に足る〕宗教(おしえ)は、〔偉〕大なる能力でなくてはなりません。

 

美文は、〔とうてい〕人を救う能力ではあり〔得〕ません。〔また、人智による〕哲学は、社会を改める起爆薬ではありません。

もしキリスト教が、その宣言するごとく神の真理であるならば、これは美文であるとか哲学である〔など〕と言って、ただ人〔の感性や知性〕を楽しませる〔だけの〕ものであってはなりません。

 

これ(真のキリスト教)は、〔旧約聖書の〕詩編で言っているように、〔実に〕「〔人の〕魂を生き返らせる」ものです(詩篇19篇)

これは両刃(もろは)の剣(つるぎ)よりも鋭く、精神と霊魂、また関節と骨髄を切り離すまでに刺し通して、心の思いと志(こころざし)とを見分けることができる(ヘブライ書4:12)ものです。

これは、ユダヤ人をはじめギリシャ人にも、信じる者すべてを救う神の力(ローマ書 1:16)です。

 

キリスト教が〔単なる〕「優れた言葉(美文)や知恵(哲学)」(コリント一 2章)でないことは、その宣教者が始めから宣言しているところです。

 

(原著「実力の宗教」1902年、信15・66)

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【12月4日】わたしは、わが神に問い

そこで、高慢にならないように、わたしの肉体に一つのとげが与えられた。それは、高慢にならないように、わたしを打つサタンの使いなのである。

このことについて、わたしは彼を離れ去らせて下さるようにと、三度も主に祈った。

 

ところが、主が言われた、

わたしの恵みはあなたに対して十分である。わたしの力は弱いところに完全にあらわれる」。

 

それだから、キリストの力がわたしに宿るように、むしろ、喜んで自分の弱さを誇ろう。

(コリント第二 12:7~9 口語訳)

 

わたしは、わが神に問いそして言う、

あなたはどうして、今日(きょう)、ただちに〔わたしに残存する罪を取り除いて〕わたしを完全〔な者〕にしてくださらないのですか」と。


神は聖書の言葉によって、わたしに答えて言われる、

わたし彼ら(あなたの敵)を一年のうちには、あなたの前から追い払わないであろう。

この地が荒れ廃(すた)れ、野の獣(けもの)が増して、あなたを害することのないためである。

 

わたしは徐々に彼らをあなたの前から追い払うであろう。〔そうすれば、〕あなたは〔子孫を残し〕ついに増え広がって、この地を継(つ)ぐようになるであろう」(出エジプト23:29~30)と。

 

つまり、今日ただちに、わが敵である罪をことごとくわが内から追い払うことは、わたしにとって非常に危険だからである、と〔神は言われる〕。

 

わが罪を急激に掃除(そうじ)することは、わが内に空虚を生じやすい。

そして、(けが)れた霊はその虚に乗じて、自分よりも悪い七つの霊を一緒に連れて来て、わが内に共に住み着く。

すると、わたしの後の状態は前よりも、さらに悪くなるであろう(マタイ 12:44~45)

 

だから、〕わたしは、徐々にわが全身を浄(きよめ)められる必要があるのである〔。神の導きに信頼して、少しずつ前進しようではないか〕。


(原著「漸々(ようやく)の進歩」1905年、信7・195)

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【12月5日】恐れるべきでないもの

わたしたちは、四方から患難(かんなん)を受けても窮(きゅう)しない。

途方にくれても行き詰まらない。

迫害に会っても見捨てられない。

倒されても滅びない。

 

いつもイエスの死をこの身に負うている。

それはまた、イエスのいのちが、この身に現れるためである。

 

わたしたち生きている者は、イエスのために絶えず死に渡されているのである。

それはイエスのいのちが、わたしたちの死ぬべき肉体に現れるためである。

(コリント第二 4:8~11 口語訳)

 

恐れるべきでないものその第一は失敗である。

失敗は、方針を転換せよとの神の命令である。

われらは失敗を重ねて、神が定めてくださったわが天職につくのである。


恐れるべきでないもの、その第二は患難である。

患難は、われらを神の懐(ふところ)に追いやるための神の〔愛の〕むちである。

われらは艱難に会って、神がわれらのために設けてくださった憩(いこ)いの牧場(まきば)に入るのである。


恐れるべきでないもの、その第三は死である。

死は、聖(きよ)められた霊魂という純金を、肉の汚物より分離するための〔人生〕最後の手術である。

われらは死を経由して、神が聖徒のために備えてくださった栄光(さかえ)の聖国(みくに)に行くのである。

 

(原著「恐るべからざるもの三」1916年、信8・176)

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