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<聖書学・新約ギリシャ語

聖書学 003

新約学・新約正典成立史

2016年6月5日改訂

 

〖温にして厳なるキリストの御心に学ぶ〗

 

大阪市立大学名誉教授(哲学)

佐藤全弘


新約聖書が今のようにまとめられたのは、紀元2世紀の終わり近くとされる。


その全27巻の中には、福音書が4つ、それに使徒(しと)言行録、パウロの手紙13通、他の使徒ヤコブ、ペトロ、ヨハネ、ユダの手紙計7通、ヘブライ人への手紙はかつてパウロの名を冠してもぐりこみ、ヨハネの黙示録も使徒ヨハネとは文体も全く異なる別人の著だが、その名によって末尾を飾っている。


新約聖書諸書の選定は、極めて厳格な標準によって行われた。

イエスを直接に知る直(じき)弟子の使徒たちの書いたものに限られ、それらの弟子たちから学んで秀れた手紙を書き残した人たちの作品は、直弟子でないゆえ収められなかった(ローマのクレメンスの手紙)。


直弟子たちの手紙7通の中にも、ガリラヤの漁師ペトロなど逆立ちしても書けない秀れたギリシャ語の手紙など、冠せられている発信者が怪しまれるものもある。

 

パウロの13通の手紙にしても、絶対確実に彼の著作といえるものは、「ローマの信徒への手紙」「コリントの信徒への手紙Ⅰ、Ⅱ」「ガラテヤの信徒への手紙」「フィリピの信徒への手紙」「テサロニケの信徒への手紙Ⅰ」「フィレモンへの手紙」しか、パウロの直筆(じきひつ)とはみなされない。

他の6通は種々の疑問が指摘される。


福音書は、マタイとルカはマルコを元として、それに独自の源からイエスの言行を集めて編(あ)んだもの、ヨハネは独自の観点から、イエスの伝道をむしろ大枠で異なった姿に描き出し、受難、復活も他の3福音書以上に詳しく、言葉を尽くして記(しる)している。

 

ルカによる福音書」は、著者ルカがマルコ福音書の大筋に沿いつつ、多くの印象深い特種(とくだね)を盛りこんだもので、イエスの受難物語で結んでいる。

 

その続編として、そのルカが著したものが「使徒言行録」であり、ルカはその中で、ペトロ、ヨハネらを中心とするエルサレム教会が、聖霊(せいれい)を受けて誕生する姿から書き起こして、使徒たちへの迫害、ステファノの逮捕と殉教、フィリポのサマリア伝道とエチオピア高官への福音伝授、そしてサウロの回心の第1回を紹介(全部で3回)、ペトロの地中海沿岸の町々への伝道へと進んでゆく。


ルカは、パウロの最後のエルサレム上りに、フィリピで加わり、それからローマへの幽囚(ゆうしゅう)の旅と海難をも共にし、おそらく、パウロの最期(さいご)をも見届けたと思われる。


そのルカの筆によって、初代使徒たちの伝道がありありと描かれ、2000年後の私たちに伝えられているのは、まことに有難い極みである。


しかし、ここで考えるべき事がある。


福音書と使徒言行録と、直弟子の半数にも満たない人々の手紙を集めたものが新約聖書であり、その半(なか)ばはパウロの手紙と、深くパウロに学んだルカの著した2つの著述である。


パウロ系の著述を新約聖書から引き出すとすれば、「ルカによる福音書」「使徒言行録」「ローマの信徒への手紙」「コリントの信徒への手紙Ⅰ、Ⅱ」「ガラテヤの信徒への手紙」「フィリピの信徒への手紙」「テサロニケ信徒への手紙Ⅰ」「フィレモンへの手紙」に限るときは、新共同訳新約聖書全体480ページのうち228ページで、これは47.5%に当たる。パウロの名を冠する他の手紙凡(すべ)ても含めれば262ページとなり、54.5%に相当する。


パウロとその最後まで付き添った弟子であるルカの書いたものが、新約聖書のおよそ半分になるとすれば、キリスト教の示す真理の半ばもそこに示されていると考えられるかもしれない。


しかし、新約聖書が収める文書を使徒の著作に限り、また使徒の弟子でその伝道に同伴した者に限る(マルコはペトロの伝道の通訳をしたとされる)とすれば、今の新約聖書の状況が現出するのである。


イエスの直弟子の中、重要な伝道に励んだ使徒としては、今新約聖書に名を残す使徒(マタイ、ペトロ、ヨハネ、パウロ、ユダ)のほかに、ヨハネの兄のヤコブ、ペトロの弟のアンデレ、そしてフィリポバルトロマイトマス、もう一人のヤコブタダイ、熱心党のシモンがあげられる。


しかし、これらの人々は1通の手紙も、1枚の著作も残さなかったのか、残したが伝わらなかったのか、そのどちらかである。

 


今のトルコ東部南側に栄えた町タルソのベニヤミン族として生まれ、〔ユダヤ教の〕パリサイ派に属していたのがパウロである。

 

パウロは5歳で会堂に通い、10歳でミシュナーといわれる613条の命令律法(りっぽう)の注解を修め、13歳で「律法の子」となった。そして15歳でラビになるためエルサレムに上り、ガマリエル師のもとでさらに高度な教理を研究した。


こうして、パウロは自分は罪人(異邦人)ではないとの誇りをもち、先祖の言い伝えに対しては誰よりも熱心、律法については落度のない者との自信を抱くに至った。


そして、キリスト信徒(例えばステファノ)の迫害石打の時も、それを実行する人々の衣服の番を行い、ついでダマスコまでキリスト信徒を捕えにゆこうとして、その近くでイエスの顕現(けんげん)に激しく打たれ、回心したのだった。


ペトロのように、何一つ学問をせず、魚を取っていた人と違い、回心したパウロは自己のこの特異な体験を、主イエスとの特殊関係として、その独自の信仰に確乎(かっこ)として立ち切った。

 

生前のイエスに付き従い、数々の教えを受け、事々に導かれ、叱(しか)られつつ信仰を鍛(きた)えられた他の使徒たちとは異なる、特別の使徒であるとの自覚をもって、パウロは以後の信仰上の行動を貫いたのだった。

 

手紙が十数通も残されているのも、彼が筆の(そして弁の)立つ人であったことを示し、そのことは、他の使徒たちでは行うべくもなかったことがわかる。


他の使徒たちはまた、学問は浅く、他人と論争する能力も技術も身につけていなかった。

 

それにひきかえパウロは、その時代のギリシャ・ローマのストア学者にもひけをとらぬ、弁舌の大家であったから、キリスト信仰に基づいて、事細かに、あらゆる信仰問題の正邪を、深く広く論じることができた。


また、パウロの手紙のほとんどは口述(こうじゅつ)筆記であり、他の弟子たちはそんな能力も、ペンをとって手伝ってくれる人もなかったと思われる。


以上のことから、パウロの手紙が新約聖書に多く残されているのは、書い(てもらっ)た手紙の数が他の使徒たちに比べてずば抜けて多く、その内容も理路整然とし、また彼の性格上、そして口述筆記であるから、感情も豊かで、訴える力が大であったゆえと考えてまちがいない。

 

彼が自ら言うように、彼は回心後直ちにエルサレムに使徒たち、とくに主の弟のヤコブ、そしてペトロ、ヨハネを訪ね、相当の日数イエス生前の福音のさまざまの教えや、イエスその人の性格、その与えられた真理をありのままに聴き取り、自分がダマスコ近郊で受けた体験には欠けている福音の真髄真理の温かさ広さを、心を開いて受け止めることができたのに、そうはしなかった。

 

それには彼なりの理由があったと思われるのである。 


当代のユダヤ教学の奥義を凡て身につけた自分(パウロ)が、ガリラヤの漁師や税金取りから今さら学ぶことは無いという、ある尊大感が、彼の心の底にあったと思われる。イエスご自身から直接任務を授けられたのは確かだったから。


ガラテヤ書の2章にあるように、アンティオキアのペトロの行動を批判した言葉の底に、福音の真理に純粋に生きようとする志(こころざし)をこの上なく尊ぶとともに、パウロ自身の自尊心のうごめきを少しも感じられないであろうか。

 

3度もイエスを否んだペトロヘの、ただ遠くから目をやられたイエスの(おん)にして厳(げん)なる態度が、心に浮かんでやまない。

 

 

私は今、使徒言行録を講じている。

 

その筆者ルカは前述のように、パウロの弟子である。と共に、エルサレム教会出発当初の使徒たちの言行をも、かなり詳しく探り聴いて記し、使徒でない信徒(フィリポ)が使徒らも嫌うサマリアの人々に率先して福音を説き、エチオピアの高官にも聖霊の導きにより教えを施した貴重な事実をも、ありのままに記している。


ペトロが海岸沿いの町々を伝道するに当たり、あの大風呂敷に包んで示された、生物凡てが食べるにふさわしいものであるとの、彼にとっては思いもよらない真理を上より啓示され、それを受け止めて、以後伝道に当たったことをも記している。

 

とすると、ルカは、あのアンティオキアでのペトロとパウロの対立を知らなかったのかもしれない。いや、知っていても彼は書かなかったのかもしれない。


パウロについても似たことがいえる。

 

使徒言行録16章1~5節で、二度目の伝道旅行にシラスとともに出たパウロは、リストラでユダヤ婦人とギリシャ人の父との子のテモテを伝道に伴うに当たり、「パウロはこのテモテを一緒に連れて行きたかったので、その地方に住むユダヤ人の手前、彼に割礼(かつれい)を授(さず)けた。

 

父親がギリシャ人であることを皆が知っていたからである」(3節)とある。人々の手前不要な割礼をテモテに授けたのである。

 

これは、パウロが自らペトロを厳しく批判したのと変わらぬ妥協を、パウロ自身行っているのである。

律法の実行によっては、だれ一人として義(ぎ)とされないから」(ガラテヤ2章16節)とペトロを責めたパウロ自身が、自らその言葉に背(そむ)いて行っているのである。


ルカは、ガラテヤ書でこのことを知りつつ、ペトロ自身も、生まれてから久しく守ってきた律法の規定を、あの大風呂敷の教えで不要と信じたにもかかわらず(使徒言行録10章9~16節)、なお永年の習慣に流されたと見たのだった。

 

とすれば、「キリストへの信仰によって義としていただく」(ガラテヤ2章16節)ことを伝えに行く友に割礼を施すことは、余計な配慮ではなかろうか。


ペトロの(あやま)ちを書かず、パウロの信仰逸脱(いつだつ)を記したところに、ルカの真意があると考えられないだろうか。

 

使徒もキリストの教えに純粋に従い切ることはできない。できないからこそ、キリストの救いを従い受けるほかはない例を、そこに見出すのである。

 

 

新約聖書の半ばは、パウロ系の文書であることはすでにふれた。

そして福音書は、パウロの手紙とはかなり異なる、イエス・キリストの広大な救いの心を、直接イエスに師事した弟子たちの尊い記憶を通して今に伝えられていることは、ご承知のとおりである。


キリスト教は、神の子イエス・キリストの教えを信じて生きる教えである。そのイエスが召し出されたパウロに従いゆく道ではない。

 

キリストの御心(みこころ)には、パウロの把(つか)みえなかった真理が、空の星ほど満ち輝いている。

キリストの御胸には、新約聖書のどの一書にも、いな、その全書をあげても表し尽くせぬ、大いなる神の御心が、つねに永劫(えいごう)の光を放っている。 

       
(2015年6月24日)

 

♢ ♢ ♢ ♢

(島崎暉久『マタイ福音書と現代』第9巻、証言社、2015年の「序 -新約聖書の裾野にひろう」より抜粋し、改題。ルビと〔 〕内は補足)

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