<信仰入門

無教会入門 013

2016年10月15日改訂

矢内原忠雄

無教会論

 

〖無教会主義とは何か①〗

〔-無教会と教会の相違点-〕

 

無教会主義とは何か〗②

 

評伝005〖矢内原忠雄〗

第1節 宗教改革史的に見た無教会主義
1 エレミヤ
今日は内村先生を記念して、「無教会主義とは何か」というお話をしようと思います。

これは今まで何度もお話したことですけれども、私ども〔は〕信仰的立場をいつも思い返しておることが有益でありますから、そのお話をしようと思う。


一つは、歴史的と言いますか、宗教改革の歴史として無教会主義を見ることができると思います。宗教改革のことは余り遠くまで遡(さかのぼ)らなくてもいいと思いますが、旧約聖書のエレミヤはどうしても逸(いっ)することができない人物です。

 

エレミヤの青年時代にヨシヤという王がユダ〔王国〕におりまして、ヨシヤ王が宗教改革を志した。・・・

 

- 以下略 -
 
第2節 無教会主義と教会との論争点
1 教会と救い

さらに進んで無教会主義と教会側との相異点もしくは論争点は、どこにあるか。

建前としては、〕「信仰によって〔神の前に〕義とされる」という救いの原理は、教会側も認めておりますから、両者の間には根本的な差異はないでないか。

こういう批評が多いのですが、実際に論争となった点を挙げますと、主なものが二つあります。


論争点の〕一つは〔、制度〕教会の立場は、「教会の外に救いなし」という主張です。

これはカトリック教会が厳重に主張するところですが、プロテスタントの〔伝統的な〕諸教会もその立場に立っている。

 

これに対し、無教会主義は教会の外に救いがあることを主張します。これは、教会というものの理解の仕方が異なるからです。


皆さんはすでに御承知と思いますが、新約聖書に「教会」と翻訳されている原語はギリシャ語の「エクレシア(εκκλεσια)」でありますが、この「エクレシア」という言葉は元来、宗教上の用語ではなく、ギリシャの都市の民会でありまして、その都市の自由民が全部集って政治上の問題を〔討〕議した市民集会であります。


ユダヤ人には「シナゴグ」という制度がありまして、聖書に「会堂」と訳されております。これはユダヤ人が集って律法を読んだ宗教上の集会であり、また〔シナゴグは〕宗教上の問題についての裁判権を持っていました。

 

ところがイエスの昇天後、キリスト者が集会をするようになってから、ユダヤ人のシナゴグと区別するために、ギリシャ人の民会を意味したエクレシアという語を借りまして、自分たちの集りを呼ぶ語とした。

これが新約聖書で用いられている「教会(εκκλεσια)」という語の起源です。


ですから、聖書に記されている時代の「エクレシア(εκκλεσια)」は、キリスト者の集会というだけの意味であって、特別な制度・組織があったわけではありません

〔聖書に〕「監督」とか「長老」とか、「執事」とか訳されている語もありますけれども、これらはいづれも後世の教会で決めた役職(職制)ではなく、単に世話係りという程のものであったのです。

 

このような自由なエクレシアをしているうちに、〔歴史の経過と共に霊的生命が枯渇し、それにつれて信徒たちは教会〕制度を立て、組織化するようになりまして、今日のような「教会」ができた。教会という制度、もしくは制度としての教会(制度教会)といってもよいが、これは聖書から出たものではなく、伝統(長年のしきたり)によって作り上げられたものであります。

このようにして制度としての教会ができたのは、紀元3世紀から4世紀にかけてのことであると言われます(注1)


聖書に言われているエクレシアは〔制度教会とは違って〕、信者の自由な〔霊的・人格的共同体としての〕集会ですが、その本質を説明するためにいろいろの譬(たとえ)が用いられている。

 

あるいは〔聖書のエクレシアは、〕「キリストの新婦」と呼ばれている。これはキリストとの間の深い、そして永久に新鮮な愛の関係を言ったものでありまして、制度的な意味は少しもありません

エクレシアはキリストに属するものであり、キリストを愛するものであり、キリスト以外の何者にも心を寄せない者です。

 

ヨハネ福音書第15章でイエスが、「わたしはぶどうの木、あなたがたはその枝である。人がわたしにつながっていれば、その人は豊かに実を結ぶ。わたしを離れては、あなたがたは何もできないからである。」(ヨハネ 15:5)と言われたのも、キリストとエクレシアの関係を説かれたのであり、またパウロが、キリストを信ずる者はキリストを首(かしら)とする身体の肢(えだ)であると言って、有機体の譬を引いてキリストと信者との関係、信者各自の間の関係、ならびに全体としての信者の生命を説いたのも、エクレシアの本質をキリストに連なる者の生命共同体として見たものであります。

 

そういう意味で、霊的信仰をもってキリストに連なっている者の全体をエクレシアと言うとき、それから離れた者は生命(いのち)の幹から落された枝のように、枯れ死ぬのは当然であります。そのような意味では、「エクレシアの外には救いはない」と言われることは正しいのです。


しかしながら聖書のエクレシアでなく、伝統によって作られた制度としての「教会」(制度教会)については、話が違う。

 

神は霊であるから、拝する者も霊と真実(まこと)をもって拝すべきであり、人の作った制度組織そのものに、人を救う力のないことは明白です。

われわれの立ち帰るべき原点は新約聖書のエクレシアであって、制度教会ではありません。(注2)


もしも教会を一つの制度〔である〕として考え、制度的に教会員である者でなければ救われないと言うならば、無教会主義はそれに対して大きな声で「ノー!そんなことはない。」と叫びます

内村鑑三だけでなく、ルターもパウロもキリスト御自身もエレミヤも、それに対して「ノー!」と言って来たのです。それが宗教改革であったのです。

 

人は、教会という制度・組織の中にいることによって救われるのではない。〔教会への所属とは無関係に、〕信仰によって救われるのである。そういう意味で、「〔制度〕教会の外に救いがある」という無教会主義の主張があるのです。


その場合「教会」と言われているものは、キリストの肢である霊的・人格的生命の共同体としてのエクレシアではなく、伝統によってできた制度としての教会(制度教会)です。〔または、〕教会という制度(教会制度)のことです。


教会制度〔、儀式、組織〕によって救われるのではない。信仰によって救われるのである。

これは、「律法の行為によって義とされるのではない、信仰によるのである。」と言うのと同じ事であって、教会の会員であることによっては義とされない。救われる救われないの区別は、教会という制度(制度教会)に属するか否かにあるのではない。

律法の行為〔の業績〕に誇る者が心の平安を持たないのと同じように、教会という制度の中にいなければ救いがないという思想は、〔霊魂の〕自由を窒息させるものであって、生命を奪うものです。

そういう意味で、無教会主義者は、「教会の外に救いがある」というのです。


それゆえ〔同様に〕、無教会主義者でも、「無教会」ということ自体に救いがあるのではありません

無教会主義者も集会をします。もしも自分たちの集会に来る者―それを会員制度にしようが、会員制度でなからうが―自分の集会の仲間〔、党派〕でなければ救われないというように、「仲間」ということを大事に考えるようになれば、これは教会主義に他ならない。

 

これに反し、制度的な教会に属する人でも、教会員であることは救いについて別段の意味があるのではなく、ただ便宜〔上〕の問題であり、救いはもっぱら信仰によることをよくわきまえているならば、その人はキリストの肢(えだ)である〔。神はえこひいきはされない〕。

 

救いは教会員であるとか無教会員であるとか、制度もしくは伝統によって区別される便宜〔上〕の問題ではなく、常に、そして絶対的に信仰によるのであることを主張するのが、無教会主義であります。

 

2 サクラメント(プロテスタントでは聖礼典、カトリックでは秘蹟と呼ぶ)
第二の論争点は、サクラメントすなわち〔聖〕礼典(秘蹟)の問題です。

 

カトリック教会には結婚をも含めて七つの秘蹟(ひせき)がある。プロテスタント教会は、その中の洗礼(バプテスマ)と聖餐(せいさん)式という二つの〔聖〕礼典を残しています。

一方、無教会には〔、信徒が必ずあずかるべきとされる〕礼典がない

 

礼典(サクラメント)行為を重く見て、〔事実上、サクラメントにあずかることが〕信者であることの必要条件と見るか否かが、教会と無教会との論争点になっている。


マタイ福音書の最後に、「あなたがは行って、すべての民をわたしの弟子にしなさい。彼らに父と子と聖霊の名によって洗礼を授け・・なさい」(28:19)とイエスが言われた〔とされる〕こと、あるいは最後の晩餐の席上、「取って食べなさい。これはわたしの体である。皆、この杯から飲みなさい。これはわたしの契約の血である。」(26:26、27)と言われた事が、〔制度〕教会の実行しているような形の礼典(サクラメント)を行えという一般的な命令であるか否かは、それ自体聖書学者の間に疑問のある事柄でありますが(注3)、その解釈論は別としまして、イエスの命令を守ることの中で何が最も大切であるか。


イエスの教えの全体を考えて見てわかることは、〔最も大切なもの、〕それは、心を尽して神を愛し、また隣人を愛せよ、ということであります。それがイエスの命令中の命令です。

その他に、たとえばバプテスマを施せとか、あるいはパンを裂き、ぶどう酒を飲めと言われたことがあるにしても、それらは愛せよという命令から見れば付随的なことである。


イエス御自身が〔地上の生涯の間に〕人に洗礼を授けられたことはありません。また弟子たちと共にパンを裂き、ぶどう酒を飲まれたことも、生涯にただ一度だけ記されていることです。

もしもそれが非常に大事なことであるならば、イエス御自身が多くの人に洗礼を授けられたでしょう。また、いわゆる聖餐を守られた記事も多くあるはずでしょう。


バプテスマや聖餐の式典(サクラメント)を、イエスの弟子たる者の生活における最大行事として重んじ、これを行うことが信者である者と信者でない者とを区別する標準のように考えることを、イエスは果して喜ばれるだろうか、お怒りになるだろうか

 

もちろん、〔イエスは〕お怒りになる。形(式)に捉われて、たましいの自由を窒息させてはいけない。安息日〔律法の規定〕のために人があるのでなくて、安息日は人のためにある(マルコ 2:27)。〔実際、イエスは、隣人への愛を安息日律法に優先させたのである。〕

人を救うために、ある時には故意に安息日の律法を犯(おか)されたイエスが、教会の伝続から作り上げられた「式典」を重んじられるはずがないのです。


無教会主義は、〕バプテスマや聖餐をしてはいけない、というのではありません

してもよい〔。〕けれども、その場合でも、教会の決めた按手礼(あんしゅれい)を受けた有資格者が授けるのでなければ有効なバプテスマもしくは聖餐と〔は〕認められないというのが、教会〔側〕の主張です。

カトリック教会においては、葬式や結婚式も礼典(秘蹟)でありますから、教会の有資格者が行うのでなければ、有効な式とは認められません


これに反し無教会主義では、洗礼もしくは聖餐を行いたいと思えば行ってもよいが、その際、資格を問いません〔。それは、あくまでも信仰の発露として行うのであって、サクラメントではないからです〕(注4)

信仰によって行うならば、誰が施(ほどこ)してもよい。結婚式でも葬式でも、友達が信仰と愛によって行えばよいのです。〔教団の〕按手礼(あんしゅれい)を受けて、牧師(正教師)の資格をとる必要はない

 

人間の決めた伝統的な制度〔、儀式、言い伝え〕によって神のこと〔がら〕を横取りしてはならない、というのが無教会の主張なのです。

 

〔つづく〕

 

♢ ♢ ♢ ♢

(1956〔昭和31〕年3月25日内村鑑三26周年記念講演会(於:今井館)「無教会主義とは何か」『嘉信』第19巻・第6号、第7号、第8号、1956年6月、7月、8月を現代語化。( )、〔 〕内は補足、下線は引用者による)

 

注1  制度教会の成立

「主の再臨(さいりん)を待ち望むイエスの弟子たちの自由な〔霊的・人格的〕結合体(エクレシア)は、300年の間に、全ローマ帝国を包括する、十分組織化された、国家と密接に結合した一個の法制度〔つまり、法制度的組織体〕となった。」(荒井献、加賀美久夫共訳、カール・ホイシ『教会史概説』新教出版社、1966年、p16から引用。( )、〔 〕内は補足、下線は引用者による)

 

注2 イエスの福音への原点復帰

無教会入門007高橋三郎〖教会と無教会〗

 

注3  サクラメント(聖礼典)としての洗礼式、聖餐式の起源について

〖無教会入門〗の諸論考を参照。

神学・論文005高橋三郎〖最後の晩餐〗

 

注4 洗礼聖餐は信徒の交わりの表現

洗礼と聖餐は、エクレシア〔すなわち、新約聖書的な教会〕においてサクラメント〔聖礼典〕ではなく、また救いの手段でもなく、かえってキリストにある兄弟としての交わりの表現〔の一つにすぎないの〕である。

 

それゆえ、無教会は今までこの二つの礼典を本当に稀にしか行わなかったし、これがキリストの集団(信仰共同体)を構成する〔本質的な〕ものとは決して見ていない。」

(エーミル・ブルンナー E. Brunner 「日本の無教会運動」『日本におけるブルンナー』新教出版社、1974年、p220より抜粋。( )、〔 〕内は補足)

 

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