イエスの純福音・無教会の精髄・第二の宗教改革へ
― まごころで聖書を読む。そして、混迷の時代を神への信頼と希望をもって、力強く前進する ―
We read the Bible with all our hearts. And we move forward powerfully in this era of turmoil with trust and hope in God.
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最終更新日:2024年12月7日
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11月<内村鑑三「一日一生」現代語訳
11月11日~15日
(2018年 12月23日更新)
このページは、山本泰次郎、武藤陽一編『続 一日一生』(教文館、1964年)を現代語化したものです。
【11月12日】既成の贖罪
主は言われる。
さあ、〔互いに〕論じ合おう。
あなたがたの罪がたとえ緋(ひ)のようでも
雪のように白くなる。
たとえ紅(くれない)のように赤くても、
羊毛のよう白くなる。
(イザヤ書 1:18~17 聖書協会共同訳)
■確かに、神の側では〔、人の〕罪は〔すでに〕取り除かれたのである。
神がキリストを通して世〔の人々〕を見られる時、彼はその中に罪なるものを認めないのである。
紅のようなキリストの〔十字架の〕血〔潮〕によって、われわれの緋のような罪は〔洗われ〕、すでに雪のように白くされたのである。
反対に〔今、贖(あがな)い主〕キリストを通して神を仰ぐとき、彼(キリスト)にあってすでに、われわれの罪が拭(ぬぐ)い去られたことを、われわれは発見するのである。
贖罪(しょくざい)は未完のことではない。既成(きせい)のことである。
〔あとに〕残されたのは、ただ、神に対する人の態度の方向転換〔のみ〕である。
〔つまり、〕神に背を向けずに、キリストを通して自らの顔を〔神に〕向けるとき、われわれは、すでに神の眼中にわれわれの罪の無いことを知るのである〔。
そして、神によって既になされた罪の赦しを感謝して受けとめること、そのことが信仰である〕。
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(「罪の洗浄」1913年9月、信6・38項の抜粋を現代語化、( )、〔 〕内、下線は補足)
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【11月13日】内と外の一致
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