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<信仰と人生

信仰に生きる 037

2022年10月29日改訂

原 著:三谷隆正

現代語化:さかまき・たかお

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〖S童子を葬る言葉〗

- 小さき者をも包む神の絶対愛 -

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小さき者

* * * *

 

〔イエスは言われた。〕

「心して、これらの小さき者たちの一人をもさげすむことのないようにせよ。

 

なぜなら、私はあなたたちに言う、天にいる彼らの天使たちは、天におられる私の父〔なる神〕の御顔(みかお)を常に見ているからである。


あなたたちはどう思うか。

もしある人に百匹の羊がいて、その一匹がさ迷い出たら、彼は九十九匹を山に残しておき、さ迷い出た一匹を探しに行かないだろうか。


もし、それを見い出したとなれば、アーメン、私はあなたたちに言う、さ迷い出てしまわなかった九十九匹よりも、むしろその一匹のゆえに、彼は喜ぶ。


このように、これらの小さき者たちのうちの一人でも滅ぶことは、天におられるあなたがたの父の意志(おもい)ではない」。

(マタイ 18:10~14、岩波訳参照)

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1

〔1-①〕                                 
このひとまとまり〔の文章〕のうち、初めの一節で言われている「彼らの天使たち」とは、幼児には一人びとり「守護(しゅご)の天使」がついていて、その天使は常に天の御父(おんちち)の聖顔(みかお)を見ているというので〔あって〕、〔古代ギリシャの哲人〕ソクラテスについていたという「守護の霊」(ダイモニオン)と似た考えでありまして、真(まこと)に美しい考え方であると思います。

 

そしておそらく、われら一人びとりのために何か「守護の天使」というような者がついていて、〔われらのために〕働いていてくれ〔てい〕るのではないかと考えられます。

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しかしそれらの問題について、私ども人間は今〔は、〕多くを知ることはできません。

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〔1-②〕
ただ、今の私どもにもよく分かることは、キリストがわれらに示してくださった神は、天におられる「われらの父」であって、父である神はわれら一人びとりのために〔実に〕濃
(こま)やかに配慮してくださり、天父(てんぷ)のご記憶の内では、われらのごく小さき者、幼き者であっても、否(いな)、一羽の雀(すずめ)さえもが(マタイ10:29)、それぞれ独特の個(ひとり)として〔他との比較を超えた〕独自の〔価〕値を持つものである、ということです。

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〔1-③〕
言い換えれば、天におられる《父なる神》は、われら造られた者を一人ひとり、個別的に記憶してくださるということです。 

 

そして、このことがとりもなおさず、「神は愛である」ということの意味です。

 

またそのことを教えるのが、この「迷い出た羊」の譬(たと)え話です。

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​

2

〔2-①〕

百匹の羊を飼っている人が、その百匹の内の一匹が見えなくなったので、九十九匹を山に残したまま、迷子になったたった一匹を探しに出かけるというのは、冷静な損得計算をする人から見れば、血迷った行動としか映らないかも知れません。


しかし、羊飼いがいかに自分の羊を愛するか、そのことを知る人にとっては、上の話は決して架空(かくう)の作り話ではなく、きわめて現実的な成り行きに即した実話で〔も〕あることが、容易に理解できるのです。

 

そして、その点において、イエスは世にも希な現実観察者であり、最も深い寓話(ぐうわ)家でした(語注1)。

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〔2-②〕
「あなたたちはどう思うか・・・・九十九匹を山に残しておき、さ迷い出た一匹を探しに行かないだろうか」というイエスの言葉は、こうすることが羊飼いとしていかにも自然な情であり、当然〔かつ〕自明
(じめい)のことであるかのような語気です。

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〔2-③〕
そして事実、羊に対する羊飼いの情愛の程をよく知るユダヤ人にとっては、羊飼いのこの行動は容易に推測できることであって、きわめて当然自明のことでした。

 

否(いな)、誰であれ、愛の何たるかを良くわきまえている人にとっては、このことは、きわめて当然自明であるに違いありません。

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​

3

〔3-①〕      

ましてや、十人の子をもっている親がいたとして、そのうちの一人の姿が見えなくなった時〔には〕、九人の子供を家に残し置いて、迷い出たその一人を探しに出ない親がおりましょうか。

 

九対一というような損得計算は、この場合、まったく無意味です。

 

親はただ一人の迷児(まいご)のために、狂ったように探し歩かずにはいられないのです。

それが、親の愛〔というもの〕です。

​

〔3-②〕
概
(がい)して愛とは、このようなものです。数の多少は〔まったく〕問題になりません。

 

一人ひとりが絶対的に、独自〔の価〕値をもちます。こうして、個(ひとり)の無限大の個性価を慈(いつく)しむのが愛〔なの〕です。

​

​

4

〔4-①〕    

今からちょうど、六年前の春のことでした。私は生まれて一月(ひとつき)にも満たない独り児(ひとりご)を失いました。

 

まだ父母の顔の見さかいもつかないほどの〔小さな、小さな〕赤ん坊で、きっと他人が見たら一個の物〔体〕にも等しい存在だったでしょう。

​

〔4-②〕
しかし私ども親たる者にとっては、この赤ん坊は他にかけがえのない一個の人格でありまして、この小さき一人がいなくなったために生じた空隙
(くうげき)は、他のいかなる人をもってしても、何物をもってしても、埋めることのできない空隙〔なの〕です。

 

〔愛児を失った〕その悲しみは、私がこの地上にとどまる限り、完全に癒やされることはないと思います。

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〔4-③〕
同じことをまさに今、N 君ご夫妻やお祖母様方がお感じのことと存じます。

 

今日から文字通り、「起きて見、寝て見る蚊帳(かや)の広さかな」を実感されることと存じます。

 

ご両親方の現在の悲痛を完全に癒やし得るものはただひとつ、亡きお子様が甦(よみがえ)ること〔だけ〕です。

 

そのことが叶(かな)わぬ限り、今日のお悲しみが完全に癒(い)やされる日は、決して来ません。

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​

5

〔5-①〕    

それならば、幼き Sちゃんが甦る日は来るのでしょうか。それとも、そんなことは望み得(え)ないことなのでしょうか。

 

私には詳しいことは分かりません。

しかし私は〔創造者である〕神がおられて宇宙万物を主裁(しゅさい)し、人の世を摂理(せつり)されつつあると信じます(語注2、3)。

 

そして、その神は天におられる「われらの父」であって、絶大なる愛〔そのもの〕であられると信じます。

 

愛以外のお方として神を考えることは、私にとっては極めて不自然〔かつ〕不合理であって到底、不可能なことです。

​

〔5-②〕
そして神の愛なるものは、個
(ひとり)の無限大の独自〔の〕値〔うち〕を慈しむものなのです。

 

人間の親でさえ、自分の子の絶対的〔な〕個性〔の〕価〔値〕を知り、これを愛(いと)おしみます。

 

ましてや、全能〔かつ〕絶対愛の神が、ご自分のお造りになったものを忘れるなどとは〔、全く〕考えられません。

​

〔5-③〕
われら人間は能力不足のため、たかだか十人、二十人位しか、心に深く刻んで〔その〕個性価を愛し、慈しむことができません。

 

われらが口にする「人類愛」〔なるもの〕は、要するに、それを口にするだけのことであって、〔実際には〕われらはただ漠然(ばくぜん)と〔頭に〕「人類」を思い描き、その「人類」に対する、つかみ所の無い「愛」を構想しているにすぎません。

 

われらの持つ「愛」は、〔現実には〕全人類を包むことなど不可能なのです。〔残念ながら、われら人間は〕それだけの能力を持っていません。 
 

〔5-④〕
しかし神様は全人類を一人残らず個別的に記憶し、個別的に各〔人の、〕個性の独自値を愛し、慈しまれるのです。

そのことを〔印象〕強く〔われらに〕教えるのが、「迷い出た羊」のたとえ話です。

 

そしてまた、われら自身の〔人生における〕小さき愛の〔現〕実〔経〕験において、そのことを多少なりとも類推することができます。

​

​

6

〔6-①〕

〔生後間もない〕愛児を失い、続いて妻に先立たれた年の秋、私は貪(むさぼ)るように〔詩人〕ダンテの『神曲』を読みふけりました。

ある止(や)みがたい心の要求が、私をそうさせました。

 

そして『神曲』天国篇のある箇所で、天の王座を囲む、祝福された人々の席の中に、幼くして死んだ嬰児(みどりご)たちの席を見つけて、何〔故〕か知らず心うれしく〔なり、私は〕、詩人のこの想像に対して心からの同感と感謝とを送りました。

​

〔6-②〕
あるいは、〔何と〕たわいない想像かと嘲(あざ)笑う人がいるかも知れません(語注4)。

 

しかし私は、詩人の想像がそれほどたわいないものだとは考えません。

 

もし神がおられるならば、愛でなくて何であり得ましょうか。

そしてもし、神が愛であるならば、われら人間でさえ慈しむこの愛(いと)し児(ご)を、そのかけがえのない個性価を、どうして神が慈しまれない〔道〕理がありましょうか。

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〔6-③〕
「一羽の雀(すずめ)さえ、天父(てんぷ)のお許しなしに〔は、〕地に墜(お)ちることはない」と、キリストは言われました。

 

全人類を一人ひとり、個別的に愛(め)で慈しむことは、われら〔人間〕の力には余ることです。

​

〔6-④〕
しかし、全能かつ絶大な愛であられる神は、全人類を〔一人ひとり、〕個別に愛
(め)で慈しんでくださいます。

 

神様はあどけない Sちゃんをあらわに記憶してくださるに違いありません。

 

この小さき魂(たましい)は、今も〔愛なる〕神様の護(まも)りの内にあって、永遠に成長し続けるに違いありません。

 

神様は、永遠に Sちゃんを慈しんでくださるに違いありません。

決して、棄(す)て〔去るようなことは、なされ〕ないに違いありません。

 

その事実を目(ま)の当たりにする時が、いつの日か、われらの上にも来ると私は信じます。

 


 ♢ ♢ ♢ ♢

(原著:三谷隆正「S童子(どうじ)を葬(ほうむ)る詞(ことば)」、『知識・信仰・道徳』新教出版社、1971年、201~206項を現代語化。初出:畔上賢造主筆『日本聖書雑誌』第9号、1930(昭和5)年9月。( )、〔 〕内および《 》、段落番号は補足。下線は引用者による)

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​語 注

1.寓話(ぐうわ)

教えや教訓などを、動物や他の事柄に託(たく)して語る物語。アレゴリー。イソップ物語などが代表例。

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2.主裁(しゅさい)

創造主(そうぞうしゅ)として、憐れみをもって義(ただ)しく裁定(さいてい)すること。

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3.摂理(せつり)

この世を支配し、人間を最終的に善へと導く神の意志。また、遠大かつ細やかな聖計画(ごけいかく)によって、人の世と宇宙万物を完成へと導くこと。

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4.たわいない

思慮分別がない。幼稚(ようち)で、とるに足りない。

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注1 一羽の雀(すずめ)さえ

「二羽の雀は 1アサリオンで売られているではないか。

だが、その一羽さえ、あなたがたの父のお許しが無ければ、地に落ちることはない」(マタイ 10:29、イエスの言葉。聖書協会共同訳)。

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注2 ちいさいひつじが

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ちいさいひつじが

The Good Shepherd

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こどもさんびか 55番

作詞:Albert Midlane

作曲:Salvatore Ferretti

日本語訳:堀内啓三

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1.

小さい羊が 家をはなれ、

ある日 遠くへ あそびに行き、

花さく野はらの おもしろさに、

かえる道さえ わすれました。

​

2.

けれどもやがて 夜になると、

あたりは暗く さびしくなり、

家がこいしく 羊は今、

声もかなしく 鳴いています。

​

3.

なさけのふかい 羊かいは、

この子羊の あとをたずね、

とおくの山やま 谷そこまで、

まいごの羊を さがしました。

​

4.

とうとうやさしい 羊かいは、

まいごの羊を みつけました。

だかれてかえる この羊は、

よろこばしさに おどりました。

(出典:日本基督教団讃美歌委員会編『こどもさんびか 改訂版』日本キリスト教団出版局、2002年、55番)

 

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