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最終更新日:2024年10月9日
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無教会と伝統
(3)
〔16〕
〔16-① 内村の信仰のエートス〕
しかし私が次に申したいことは、内村先生の信仰と思想の背後には、日本的伝統と宗教改革以後の欧米の近代的伝統とが融合して、独特の《エートス(性格)》を形作っている、という点であります。
その中で特に著(いちじる)しいものは、《武士道》(注1)と《ピューリタニズム》(注2)です。
また最近、ドイツの宗教辞典『R・G・G(エル・ゲー・ゲー)』の新版にのった「内村鑑三」の項にあるように、《個人主義》的・《敬虔主義》的な要素があることも確かです。
〔16-② 内村の信仰と武士道、儒教、禅宗〕
《武士道》については、内村先生自身がしばしば誇りをもって語っておられるように、先生のキリスト教はいわゆる《武士道に接ぎ木された基督教》でありました。
それは、「五倫五常」の儒教的モラルを骨子とするものであって、さきほどの師弟関係もこの儒教的・武士道的伝統に由来するものと考えられます。
先生は法然(ほうねん)や親鸞(しんらん)を「わが信仰の祖先、あるいは友」と呼び、また日蓮を大いに賞揚(しょうよう)したこともありますが、その性格は仏教的というよりは儒教的(注3)であったと思われます。
もっとも最近、無教会の性格が禅宗的なものに近いということを指摘する声もあります(土肥昭夫著『内村鑑三』231ページ)。
たしかに禅宗(注4)は、仏教の中ではたいへん簡素で質実剛健な武士的性格をもっており、また師弟関係の重視ということがありますから、そのような意味で無教会を禅宗的と言えなくはないでしょう。
しかし、少なくとも一つの点で両者は〔大きく〕違っております。それは、無教会では聖書の言葉を重んじますが、禅宗では経典の言葉には重きを置かず、〈不立文字〉で直接的な悟りを旨とする点です。
〔16-③ 内村の信仰とピューリタニズム、敬虔主義〕
次は、《ピューリタニズム》〔Puritanism、清教徒主義、注5〕です。
これについては『わたしの信仰の先生』という講演の中で、内村先生は「私の信仰は、ピューリタン主義の本場であるニューイングランドから来ていることは確実である」を述べております(内村鑑三全集第11巻827ページ)。
内村先生が留学した頃の〔米国〕ニューイングランドのピューリタニズムについては、最近の研究で色々なことが分かってきました。
それは、いわゆる「ピューリタン」という言葉で誤解されがちな、堅苦しい道徳的なものではなく、高度に倫理的であるとともに福音的であり、しかも《終末的信仰》に燃えていたようであります。
また、内村先生の〔信仰上の〕恩師であるアマスト大学のシーリー総長は、ヨーロッパ風の敬虔主義的信仰をもっており、内村先生はその感化を非常に受けています。
《ピューリタニズム》の発祥は、イギリスからさらに大陸の宗教改革者たち、カルヴァンやツヴィングリに遡(さかのぼ)り、《敬虔主義》(注6)の源流はルターに発するようです。
《ピューリタニズム》と《敬虔主義》、この両者はルターとカルヴァンが違うように、その歴史的性格は異なるのですが、共通点もあります。
それは、両者とも少数派で、絶対多数の正統派にプロテスト〔=抗議・異議申し立て〕するものであった、という点です。
すなわち、イギリスのピューリタニズムは国教会としての《アングリカニズム(英国教会主義)》に対し、ドイツの敬虔派も国教会である《ルター正統派〔教会〕》に対し、それぞれプロテストしたのです。
そして両者ともに、自由な信仰に基づいて教会の外に、あるいは〔教会〕内に、小さな理想の教会を作り、その生活態度はともに禁欲的だったのです。
内村先生の信仰の性格は、先生自身が自覚されたところではカルヴァン主義的であり(全集13巻966ページ)、またピューリタン的ですが、同時に敬虔主義的な要素も含まれているように思われます。
〔16-④ 内村の信仰と個人主義〕
今ひとつの《個人主義》は、教権主義や伝統主義に対して〔、個人の〕《信仰の自由》と《良心の尊厳》を主張する立場であり、歴史的にはやはりルターの《宗教改革》にその源を発すると言えましょう。
その後西洋の歴史にはいろいろな思想の変遷がありますが、19世紀になって《個人主義》のチャンピオンとして独自の位置を占めるのは、〔ドイツの実存哲学者・〕ニーチェと〔デンマークの預言者的キリスト教思想家・〕キルケゴールです。
この個人主義は、明治30年代の終わり頃からロマン主義思潮とともに、文壇や一般知識層の間に浸透しました。
内村先生もその影響を免れなかったのではないかと思いますが、先生のそれ(個人主義)は本来、性格的なものでもあり、信仰上の系譜としてはやはり旧約の預言者や宗教改革者の個人主義に近いと言えましょう。
ともかく、先生の個人主義は神と共にある個人主義・単独主義であって、それは、あの“Alone with God and Me”という『英和独語集』や「単独の讃美」という文章(全集11巻583ページ)等によって、最も良く窺(うかが)われます。
〔16-⑤ 根源的な伝統、異質的なもの〕
以上4つのもの、すなわち《武士道》、《ピューリタニズム》、《敬虔主義》、《個人主義》のほかにも内村先生の思想・信仰を特色づけるものはあるでしょうが(たとえば《聖書主義》のようなもの)、少なくともこの4つのものが先生および先生以後の、無教会の伝統の中に織り込まれていることは疑いないところであると思います。
最初に私が「伝統には色がある」と言ったのは、このような複合的要素のためでありまして、その中には、純粋なキリストの福音とは異質的なものが含まれているかも知れません。
しかし、根源的な伝統が生きているかぎり、それは恐れるに足りません。われわれの根源的な伝統はキリストの福音であり、福音の生命です。それは、信ずる人間の個性や民族性、その風土的特質によって〔何らかの〕色が付きます。
「純粋な福音」ということをよく言いますが、それは試験管の中の〔化学的な純〕水のように透明な、しかし味のないものではありません。
むしろそれは、谷間の清水にように、〔化学的には〕多少の不純物を含んでいても、〔そのために、かえって〕舌に染み込む味と活力のあるものです。
真に生きて溢れる生命の流れであるならば、少々異質的なものが混入していても、いつの間にかそれを浄化し吸収しうるはずです。また、そのためにかえって本来の生命が豊かになる、ということもできましょう。
〔17〕
〔17-① 伝統に対する選択と拒絶〕
しかしながら〔同時に、〕われわれは、〈根源的なもの〉と〈副次的なもの〉を混同してはなりません。
「真に伝統を受け継ぐ」ということは、伝統を墨守(ぼくしゅ)することではありません。何から何まで伝統を固守することは、かえって真の伝統を殺してしまう悪(あ)しき〈伝統主義〉です。
したがってわれわれは、内村先生以来のもの〔、無教会の伝統〕だからといって〔これを鵜呑みにして〕、一から十まで保存する必要はありません。
根源的なもの〔、本質的なもの〕にたいする随順(ずいじゅん)と個性的な応答によって、受け継ぐべきものを受け継ぎ、捨てるべきものを捨てるのが正しい態度です。
そこには、選択と拒絶の〔主体的な〕自由がなければなりません。〔そのために時には〕一面的になる危険があっても、やむを得ないと思います。
〔17-② 伝統の主体的継承、伝統主義との対決〕
ともかく伝統の継承は、社会的な制度や慣習の踏襲や、家の跡目財産の相続とは違って、どこまでも自発的・主体的でなければなりません。
内村先生自身が西洋の、あるいは日本の伝統の中から、あるものを選び、あるものを退けて、真理を主体的にとらえました。
このような主体性のないところに、創造も進歩もありえません。
このように見てまいりますと、そもそもキリスト教の歴史は最初から、〈伝統主義〉に対する対決の歴史であった、と言えましょう。
イエス自身がそうであり、〔宗教改革者〕ルター、カルヴァンみな然(しか)りです。彼らは後代から見てこそ「正統」ですが、当時においては「異端(いたん)」で〔あり、それゆえ彼らは、激しい迫害を受けたので〕した。
宗教でも文学でも芸術でも、いわゆる「正統派」が必ずしも真の伝統を伝えず、異端的と見えるものが〔実は、真の伝統を受け継ぐ〕〈正統〉であることは珍しくありません。問題は、伝統のダイナミックな理解と継承の仕方にかかっているのであります。
われわれ〔無教会〕の場合、伝統の継承は〔神の直接的な導きによる〕カリスマ的〔なもの〕でありますが、同時にそれはエリオットが言ったように、非常な努力をして〔主体的に〕獲得すべきものでもあります。
〔そのためには、〕われわれはまず、われわれの前にある〈伝統〉を見つめ、それと対話することが必要です。
〔18〕
〔18-① 他者との対話-公同のエクレシアを目指して〕
これと関連して最後に私が申したいことは、〈他者との対話〉ということです。
われわれが真のエクレシア(神の教会)を目指すものであるならば、われわれの目は自己を見つめると共に、〈他者〉に対し、われわれの〈外なる者〉に向かって開かれねばなりません。
社会や教会の動きに対して、ただ反発したり無関心であるのでなく、問題の所在を良く見極めた上で、適切な反応を示すべきであると思います。
社会の動きに対しては、〔無教会の〕『東京独立新聞』その他においていくらか反応が見られますが、教会の動きに対してはあまり関心が無いように思われます。
無教会について教会側からなされるいろいろな発言や批判に対して、無教会側ではほどんと反応を示さない。これでは両者の疎隔(そかく)はますます大きくなるばかりです。
〔内村鑑三〕30周年記念講演のとき紹介した山谷省吾(やまたに・しょうご)氏の言葉(石原兵永『聖書の言』295号参照)に対しても、私の知るかぎり積極的な反響はないようです。
その後、山谷氏の肝(きも)いりで、オランダのH・クレーマー博士を囲んで教会・無教会の懇談が一度だけ持たれましたが、(スイスの)E・ブルンナーとかH・クレーマーとかいう外国人の仲介がなければ〔両者が〕話し合えない、というのでは仕方がありません。
〔18-② 無教会集会相互の対話の必要性〕
無教会相互の間でも、そうです。
丸の内の塚本集会や今井館の矢内原(やないはら)集会が〔その使命を終えて〕解散され、その後いくつかの新しいグループができ、聖書の研究が行われているのは結構ですが、それらの間に、また他のグループとの間に、どれだけコミュニケーションがあるでしょうか。
世代が移るにつれてますます小さく分かれ、各自わが道をゆくようになるのはプロテスタントのやむを得ない宿命であるかも知れませんが、少なくとも、その間にもう少し積極的な対話と交流がなければならない、と私は思います。
それぞれの殻(から)に閉じこもり、自分たちの仲間だけの同好会的な集まりに堕するならば、それは《公同性》を本質とするキリストの《エクレシア》とは言えないでしょう。
「一人一教会」を極限として認める無教会であっても、それはかえってそのゆえに、〈公同性〉と〈交流性〉を欠いてはならぬものであるはずです。
〔19〕
〔19-① 《第二の宗教改革》を推し進めるために〕
本日、私が《伝統》ということを問題にしましたのは、時間的な面では伝統との対話、空間的な面では相互の対話の必要性をますます、痛感するからであります。
〔生き生きとした〕伝統の継承は個人の主体的な決断と努力にかかっておりますけれども、それが真のキリストの生命につながるためには、どうしても時間的・空間的両方の面における対話を必要とするのです。
〔時間的な面における〕伝統との対話によって世代間のギャップがうめられ、〔空間的な面における〕相互の対話によって〈たこつぼ〉的閉鎖性が破られるときに、初めてわれわれは、内村先生の意図した《第二の宗教改革》を推し進めることができるでありましょう。
〔おわり〕
♢ ♢ ♢ ♢
(出典:1963〔昭和38〕年 「内村鑑三先生記念キリスト教講演会」記録・鈴木俊郎編『内村鑑三の遺産』山本書店、1963年収載「伝統について 中澤洽樹」の17~24項。読みやすくするため一部表現を改変。ルビおよび( )、〔 〕内、《 》、〈 〉、下線は補足)
注6 敬虔主義[独]Pietismus ピエティスムス
⑴狭義の敬虔主義は、17世紀末から18世紀中頃、ドイツのシュペーナーやフランケなどらによって指導され、プロテスタント教会の正統主義信仰の教義化および形式化に反対して起こった《信仰復興運動》を指す。
少し遅れてベンゲルやエディンガーなどによって代表されるヴュルテンベルグの敬虔主義、またツィンツェンドルフ伯が創立した《ヘンフルート兄弟団》の敬虔主義などもこれに属する。
⑵《宗教改革》に端を発したルター派教会は、領邦教会(=国教会)として国家的な基盤に立って制度的に保障される中で、17世紀頃になると次第に形骸化し、内的な生命力を喪失していった。
その結果、教会内に霊的な荒廃と道徳的な無力化が生じ、その権威と信望は失墜した。
信仰生活も教理(条文化された信仰告白)の解釈や説教に耳を傾け、礼典(洗礼、聖餐)に参与することがすべてであるかのよう風潮に陥っていた。
そのため、人々の関心は制度的な教会から個人の信仰と道徳に移っていった。
このような状況の中、敬虔主義は信仰の内面性と敬虔、信徒の積極的役割と禁欲的な生活、個人の社会的実践の必要性を人々に説いた。
シュペーナーは代表作『敬虔なる願望』(Pia Desideria,1975)において、教会改革の基本方針を提示している。
主な内容は ①神の言葉(聖書)に親しむこと ②信徒の役割の強調 ③知識としての信仰ではなく、真の信仰の表現としての敬虔な生活 ④無用な神学的議論を避け、信仰を異にする者にも愛をもって接すること ⑤神学教育の改革。神学的知識を与えるだけでなく、学生を神の祝福に導くような教育 ⑥説教を学問的虚飾から解放し、信仰を覚醒し、信仰の実を結ばせるものにする、などである。
⑶広義には、17世紀末から18世紀にかけての国際的な運動を意味する。
その中にはイギリスの《ピューリタニズム》、オランダの厳格主義、ドイツの敬虔主義、フランスの《ジャンセニズム》(カトリック圏)などが属する。
⑷敬虔主義の特質
敬虔主義に共通する特徴として、《原始キリスト教》における愛と単純と力をもって、道徳的な完全を目指す生き方を重んじることである。
狭義のピエティスムス、すなわちドイツの敬虔主義を念頭に置いた特質は、以下の通りである(その多くは、広義の敬虔主義にも当てはまる)。
①《正統主義》が教義(ドグマ)を尊重し、その知的承認(=教え・教義を正しいと認め、同意すること)をもって信仰とするのに対し、敬虔主義は内面的な信仰体験を重んじる。
したがって、教義、信条(信仰告白)、神学論争にあまり興味をもたず、それだけ《宗教的寛容》の特徴を帯びる。また、教職制(聖職位階制)や《サクラメント》(洗礼、聖餐・聖体拝領などの聖礼典)というような外面的なものにも無関心である。
信徒の役割を強調するとともに、形式的な《幼児洗礼》などは意味をもたないとする。
《聖霊》が現実に信徒の内的生活を変革させる 《回心》の体験こそが重要であるとする。また聖餐も、救い主に対する愛がその心に燃えている人にとってのみ意味をもつとする。
②《正統主義》が上述のように教会の教義を重んじるのに対し、《敬虔主義》は聖書を重んじる。正統主義も聖書を重んじるが、それは「真正な教義」の規範としてである。
敬虔主義者は、必ずしも教会の教義を通さずに、直接、聖書の使信に耳を傾ける。
しかも、常に聖書を座右に置き、聖書と直接交わり、それを通じて信仰を深め、あらゆる面における生活の指針を聖書に仰ぐという仕方で、聖書と向き合う。
③敬虔主義では、善いわざ、敬虔な生活が重んじられる。信仰の内面性は、実践的な《愛のわざ》と密接に結びつけられる。
この場合、注目すべきは、「良い樹は、その実によって知られる」というふうに、信仰は必ず、その実として良いわざを生むという考え方である。
その結果、善いわざはその人の信仰、さらには救いを確証するものとみなされ、ついにはその確証を求めて善いわざに励むということになり、そこに一種の行為主義、《律法主義》(=信仰的業績主義)を生む傾向があるとされる。
④敬虔な生活の実践を重んじることは、敬虔主義者を反世俗的、禁欲的な生活に導く。彼らは世俗的な生活や世俗的満足を退け、そこらから隔離された生活を送ろうとする傾向を持つ。
同時に彼らは、個人的な信仰生活に対してだけでなく、社会的な面にも多大な関心を持つ傾向を有する。社会事業、教育事業、国内伝道、外国伝道への彼らの寄与は教会史上、特筆すべきものとされる。
⑸敬虔主義の影響
敬虔主義は、教義的束縛からの自由という点で《啓蒙思想》の備えをした。
内面的信仰を重んじた敬虔主義と内的理性を重んじた啓蒙主義は、人間性の重視という点で軌を一(いつ)にするからである。
その影響は、哲学者カントやゲーテといった思想家、また 《音楽の父》と言われるJ.S.バッハ、デンマークの敬虔主義の影響下に出発したキルケゴールの《主体性の哲学》にまで及んでいる。
19世紀ドイツの《覚醒運動》も敬虔主義の延長上にある、と言われている。
(注6の参考文献:武藤一雄・平石善司編『キリスト教を学ぶ人のために』世界思想社、1985年、177~181項。大貫隆ら編『岩波 キリスト教辞典』岩波書店、2002年、352~353項、フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』)
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