神学研究(神学・論文&教義学)

神学・論文 013

2020年11月18日改訂

宮田光雄(付注1)

無教会の源流と現代

(1)
原題:無教会運動の歴史と神学

(付注2)

神学・論文無教会の源流と現代 ⑵  

宮田光雄先生のお許しにより、順次、論考を掲載予定です(サイト主催者)。

* * *

1. 内村鑑三と無教会の精神
〔1-①〕
日本の無教会運動は、内村鑑三(1861年-1930年)によって、およそ60年ほど前に始められたキリスト教の運動である(付注3)。それ以後、彼の後継者たちによって受けつがれ、今日までつづいてきた。

この運動のいずれの思想や生活にも、いまなお内村の強い影響が認められる。彼の精神態度や行動の仕方は、無教会運動にとって依然として重要性をもち、いわば信仰の証(あか)しにたいする模範となっている。

この運動は、彼の存在を抜きにしては考えられない。

〔1-②〕
内村の生涯は、近代日本の歴史と社会とが根本的な転換を遂
(と)げた時代と重なっている。彼が生まれ育ったのは、日本が西欧の外圧に対抗して、明治天皇のもとに近代国家としてナショナルな統一を達成しつつあった時期にあたる。

 

彼は、日清戦争と日露戦争との勝利、さらにそれ以後高まった日本の軍国主義を体験した。そして、日本のファシズムがその最初の暗い影を政治的地平線に投じ始める直前に、この世を去った

〔1-③〕

彼の自伝が示すように、内村は古い武士階級の出身である。彼は、自分が真の日本精神の伝統である武士の精神を受けついだ生粋(きっすい)の日本人であることを、つねに誇りとした。

ちょうど、〔使徒〕パウロが「ヘブル人の中のヘブル人」であることを、また〔宗教改革者〕ルターが真のドイツ人であることを誇りとしたように。

内村は、当初は真面目な神道信者であったが、若い生物学徒として、当時の日本のフロンティア=札幌において、キリスト教信仰とピューリタニズムの倫理的理想主義とに出会った。

 

これは、ウィリアム・S・クラーク教授がニューイングランドからこの地にたずさえて来たものであった。

 

その後、内村は、生涯のもっとも深刻な危機を解決するためにアメリカに渡った。そして、じっさい、彼は、その地でキリストの十字架の恩恵にたいする信仰によって、この解決をあたえられた。

〔1-④〕
内村を日本国内で有名にしたのは、1891年のいわゆる《不敬
(ふけい)事件》である。

 

天皇崇拝を国民道徳の中心にすえた「教育勅語(ちょくご)」の奉読に際して、彼は、キリスト者として、その前に拝礼することを拒否した。当時、彼は、力ーライルの『クロムウェル伝』を読み、強い感銘を覚えていたからであった。

 

このため、〔旧制〕第一高等学校の教職から追われ、天皇の不敬漢(ふけいかん)として、国中いたるところで、ほとんど枕するところを見いだせなかった。

〔1-⑤〕
その後、彼は、大新聞の有名なエッセイストになったが、日露の開戦にさいして、確信にみちたキリスト教反戦論者として、これに激しい批判を加えた。ふたたび彼の困難な生涯が始まった。

 

それ以後、主としてその個人雑誌『聖書之(の)研究』に打ちこみ、平信徒伝道者として日本のキリスト教界において積極的な役割を果たした。

 

その生涯の絶頂期には、彼は、東京で、毎日曜日、600名から800名という多数の聴衆に向かって聖書を講じた。

 

彼の足下には多くの優秀な学生が集まり、その中から、後年、南原繁教授や矢内原(やないはら)忠雄教授があらわれた。彼らは、日本ファシズムにたいする著名な抵抗者であり、第二次大戦後、東京大学総長に選ばれた。

〔1-⑥〕
戦後、内村鑑三の名前は日本でとくに有名になった。

帝国主義的侵略戦争ののち、前古未曾有(みぞう)の帝国の敗戦に直面した日本国民に、内村は、誤った時代精神にたいして抵抗した預言者、真の愛国者として深い印象をあたえた。

 

20巻を超える彼の全集は、すでに何度も版を重ねた。彼の肖像は、他の代表的な日本人のそれと並んで、郵便切手に印刷された。

 

内村の名前とともに、無教会の運動は、日本でも、さらにアメリカやヨーロッパでも、新しい関心を呼び起こした。今日、すでに、内村について、また彼の無教会運動について、かなり多数に上る伝記的=神学的研究が出版されている。⑴

〔1-⑦〕
内村は、福音的信仰と社会正義とのために闘う、恐れを知らない戦士であった。
彼は、しばしば誤解されざるをえなかったが、けっして、他人の顔色をみて立場を変えなかったし、政治的あるいは社会的権威の評価にも動じなかった。

 

しかし、無教会運動の本質をあらかじめ定義することは、きわめて困難である。

〔1-⑧〕

その理由の一つは、内村がけっして体系的な思想家ではなかったことによる。彼の論理は、情熱的であり英知に充(み)ち、かつ体験的であって、けっして主知主義的ではなかった。

この点に関して、彼の性格は、カルヴァンよりも、いっそうルターに近いと言うことができよう。

 

いま一つの理由は、無教会運動がみずからの本質を定義することについて消極的であり、加えて自由と独立とを確保することにきわめて熱心だからである。

 

むろん、みずからを定義しようとするさまざまの試みがある。

そこで共通しているのは、何らかの形で西欧から日本へ導入された教会の制度主義とサクラメンタリズムとを拒否することがふくまれている。

〔1-⑨〕
とはいえ、内村のキリスト教観は、彼の教会観を別とすれば、一貫してまことにオーソドックスである。そこには、通常の教会的路線と一致しない点を見いだすことはできない。

 

彼は、キリスト教のもとに「まったく単純な事実」を理解している。

消極的に言えば、それは道徳ではない。それは社会改良ではない。《倫理的福音》でも、《国際的倫理》でも、はたまた何らかの仰々(ぎょうぎょう)しい近代的な主義でもない。

 

キリスト教とは人間の信仰によってあたえられる神の恩恵である恩恵と信仰こそ、キリスト教をほぼ汲み尽くすものである」(「キリスト教とは何か」1915年、『英和独語集』1922年、原文英文)。

〔続く〕

原注
(1)内村自身、英文で多くの論文や著書を公刊した。そ
の内の2冊、『代表的日本人』(Japanische Charakterköpfe)および彼の自伝『余はいかにしてキリスト信徒となりしか』(Wie ich ein Christ wurde)は、すでに30年ほど前にドイツ語さらにヨーロッパ各国語に翻訳され、当時、ヨーロッパのキリスト教界に大きな反響を呼び起こした。


しかし、最近になって無教会運動に対する関心が広く持たれるようになったのは、主としてブルンナーの論文(E.Brunner,Die christliche Nicht-Kirche-Bewegung in Japan,in:Evangelische Theologie,1959 Heft 4)によるものである。この論文に引かれた多数の文献を参照のこと。

♢ ♢ ♢ ♢

(出典:『宮田光雄思想史論集 3 日本キリスト教思想史研究』創文社、2013年収載の論文「3 無教会運動の歴史と神学」78~80項。ルビおよび〔 〕内は、サイト主催者による補足)

*本文中の〔1-①〕~〔1-⑨〕の区分番号は、原文の各段落の区切りを表す。閲覧性向上のため、サイト主催者が便宜的に付加したもの。

以下は、サイト主催者による付加注。


付注1 宮田光雄(みやた・みつお)
1928年、高知県に生まれる。東京大学法学部卒業。東北大学名誉教授。政治学、ヨーロッパ思想史専攻。

長年、学生聖書研究会を主宰して伝道に献身し、自宅内に学寮を建てて信仰に基づく共同生活を指導した。

主な著書は『西ドイツの精神構造』(学士院賞)、『政治と宗教倫理』『ナチ・ドイツの精神構造』『現代日本の民主主義』(吉野作造賞)、『非武装国民抵抗の思想』『キリスト教と笑い』、『ナチ・ドイツと言語』『聖書の信仰』全7巻、『ホロコースト以後を生きる』『国家と宗教』(以上、岩波書店)、『宮田光雄思想史論集』全8巻(創文社)『十字架とハーケンクロイツ』『権威と服従』『《放蕩息子》の精神史』(新教出版社)ほか多数(付注1の参照文献:宮田光雄『ルターはヒトラーの先駆者だったのか 宗教改革論集』新教出版社、2018年)。

付注2 宮田著「無教会運動の歴史と神学」刊行のいきさつ、黒崎幸吉の紹介
「(この無教会論は、)1960年代初めチュービンゲン大学神学部におけるケーベルレ教授の組織神学演習に際して、著者(宮田氏)の行った報告(“Der politische Auftrag des Prostanntismus in Japan”)にもとづく」訳出であり(論文の「追記」より)、「同教授は、内村鑑三とも親交のあったカール・ハイム教授の後継者であり、ドイツ敬虔主義運動の立場にも近く、-その少し前に『福音主義神学』誌に載ったエーミル・ブルンナーの論文で注目を引いていた-日本の無教会運動について新しく報告を求められ」たものである(『宮田光雄思想論集 3』の「あとがき」より)。      

           
原著無教会論(1964年にドイツで出版)について無教会伝道者の黒崎幸吉(1886-1970年)は、「極めて内容は豊富で、・・・明哲であり、始めから終わりまで息をつかずに読むことができた。じつに堂々たる有益な書物である。」と、「永遠の生命」誌で紹介している(1965年3月号)。

付注3 内村鑑三の生涯
内村鑑三は、1861(万延2)年3月23日、江戸小石川の高崎藩武士長屋に生まれ、高崎で幼年時代を過ごした。

東京外国語学校(のち東京大学予備門)を経て、1877(明治10)年、札幌農学校の官費生となった。同年、W.S.クラークののこした「イエスを信ずる者の契約」に署名し、1878年、メソジスト監督教会M.C.ハリスより受洗し、キリスト教に入信。

今から約120前の1900(明治33)、『聖書之研究』誌を創刊し、本格的に伝道活動を開始。


1930(昭和5)年328日、召天。

人物002内村鑑三

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