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信仰入門

無教会入門 024

2023年5月21日改訂

関根正雄

原題「内村先生と現代」

内村鑑と現代 ⑴

- 無教会精神の継承 -

内村鑑三と現代〗 ⑵   ⑶  

* * * *

〔 1 〕


〔1-①〕
昨年のちょうど今頃(1960〔昭和35〕年3月、注)、内村〔鑑三〕先生召天30年〔記念〕の〔キリスト教〕講演会が、この場所(東京麹町の女子学院講堂)で開かれました。

 

今年は〔内村〕先生生誕100年ということで、先生のお生まれになった月と〔天に〕召された月が、同じく新暦の3月下旬に当たりますので、今日と明日再びここで、〔内村記念〕講演会が催されることになった訳であります。

〔1-②〕
このように講演会が〔毎年〕重ねて行われますので、一体、この記念講演会の意味はどこにあるのかということを多くの方がお考えになるでしょう。

 

ある雑誌に、内村先生記念講演会は今年の生誕100年で終わりにして、来年からは無教会主義講演会を開催した方がよいだろう、と書かれていました。

 

同じような気持ちを抱いておられる方も、あるいは少なくないのではないか。そこで最初に、この問題について私の考えるところを申し上げたい思います。

〔1-③〕
昨年と今年と〔で〕​1年の差ですが、召天30年と生誕100年とでは、我々の受ける印象はかなり違います。

 

召天30年で感じるのは〔、内村〕先生と我々の近さであり、生誕100年で感じるのは先生と我々の時代の距離であります。

 

私は、先生の召される1年3ヶ月程前に内村聖書研究会の会員になりました。

 

長年、先生に接した方は、〔内村〕先生生誕100年といっても、依然、先生を非常に近い方に感じておられるでしょう。

 

それと反対に、先生に全く接したことのない方々や若い方々は、内村鑑三という人を明治、大正〔期〕の人物として、かなり遠くに感じておられるのではないか、と思います。

〔1-④〕
ところが私は、地上における先生の最後の1年に接したためか、一面〔では、先生を〕近く感じ、他面〔では〕遠く感じるという不思議な感覚を抱いております。


これは時間の関係においてと同様、先生の教えに対しても同様でありまして、先生の書かれたものを読んでいて、あまりに古典的で現代の我々とは遠いという印象を禁じ得ないと共に、キリストにある先生はいつも新鮮で、全く同時代的な印象を持つのです。

〔 2 〕


〔2-①〕

キルケゴールは、《キリストとの同時性》ということを申します。

 

我々がキリストを信ずる時、我々はキリストの《使徒》たちがキリストと同時代にあった〔のと同じ〕ようにキリストと同時代的に生きうる、というのです。

 

このことつまり《同時性》ということ〕は、キリストを信じて、その生涯を貫いた信仰の先輩達と我々の関係についても、言えることではなかろうか。

 

私どもが今、生けるキリストの中にある時、私どもは、キリストの中に深く生きた先輩と最も深いところで一致するのです。

〔2-②〕
しかしキルケゴールの言う《同時性》  ということは、問題の一面に過ぎないのであって、それぞれの時代の相違ということも、私どもは知らなければなりません。


歴史は絶えず変化し、進展します。それと共に私どもはいつも、新たな問題の前に立たされます

 

私どもが〕それらの問題と真剣に取り組むことなしに、ただ安易に、信仰の先輩との一致を強調し、「誰々先生の記念〔講演〕会」を繰り返してみても、それは意味のない事であり、単なるお祭り騒ぎにすぎないでしょう。

〔2-③〕
その意味で、このような内村先生記念講演会の持つ意味は、第一には、先生と我々との共通点、一致点の由来する最も深い根拠をもう一度、深く問うことにあります。

 

第二には、先生と我々の時代の相違、問題の相違をごまかしなく見つめ、そのような相違にもかかわらず、先生と同じように、しかし先生とは独立に、我々の信仰を今の時代に対して告白することにあるように思うのです。


〔3-①〕

そこで最初に〔、第一の点〕、先生と我々との一致点の由来する最も深い根拠はどこにあるのか、という問題です。


今年の始め、韓国ソウルで伝道しておられる廬(ろ)平久さんが来日され、私も一度、廬さんとゆっくりお話しする機会を持ちました。

 

そのとき廬さんが、こう言われた。

現在の無教会の人々は、内村先生が聖書と真剣に取り組んだように、聖書に本当の体当たりでぶつかっているだろう。聖書を本当に自分で読んでいるだろうか。聖書の読み方が安易になり、浅くなっているのではなかろうか、と。

 

私は、その時廬さんが言われたことの線に沿って、内村先生との一致ということを考えたい。

〔3-②〕
内村先生との一致、また先生の記念ということは、だ、先生の言われたことをそのまま鵜呑みにして繰り返すことであってはならない

 

内村先生は、欧米人とは立に、〔日本人として〕自分の生活をもって聖書を読み、その結論が《無教会主義》の信仰であったのです。

 

若き日に〕自分の罪に苦しみ抜いて〔、その解決のため、はるか遠く〕北米にまで行かれ、そこで真に、《十字架の罪の赦し》〔の信仰〕を得たのです。

 

また、愛する娘さんの死を通して《復活の信仰》を掴(つか)まれ、〔キリスト教国同士が戦った〕第一次大戦の経験により、人類の歴史への大きな失望から《再臨の信仰》に達したのです。

〔3-③〕
ところが私どもは今日、〔信仰と人生を浅く問い、内村先生の言葉を表面的に受け取って、〕始めから無教会主義を結論として出しているのではなかろうか。

我々が〔内村〕先生生誕100年に際してなすべきは、先生の教えられたことをそのまま繰り返すことではなく、自分の眼と心と生活をもって聖書を読み、自分で無教会の信仰をつかみ、自分で十字架の罪の赦しを真に受けとり、復活と再臨の信仰に生きることでなければならない。

 

そのようにして始めて〔、我々は〕、先生との真の一致も得られ、先生を正しく記念することができましょう。

〔3-④〕
聖書に帰れ」とは言い古された言葉でありますが、我々〔、無教会〕の場合には、〔この言葉は〕特別な意味を持つと考えます。

 

我々は制度的・組織的な縛りがないため〕、既成の教理に帰るのではなく、自由に〔、より根源的に〕聖書に帰ることができるようにされている。これは我々、無教会に与えられたではないか。

我々は教会の教理に縛られずに、一人一人、真に自分たちの眼で聖書を直(じか)に読むことができる。我々は今一度、この大きな特権を自覚し、これを用いなければなりません。

〔3-⑤〕
教会と無教会の根本的な差が、ここにあるのではなかろうか。

 

つまり〔「正論」であるとして〕結論が出ているものを〔公認の〕教理として、​〔また〕信仰の伝統として、そのまま〔無批判に鵜呑みして〕受け〔取〕るのではなく、各自の〔具体的な〕生活を通して、聖書を自分〔の眼と心〕で読み、〔神から直接、〕信仰を与えられるのが、無教会の生き方でありましょう。

 

日本における大きな問題である教会と〔無教会〕の関係も、この点から新たな道が開けてくるのではないかと考えます。

〔3-⑥〕
先日、私はある教会の牧師と話した際、次のように申し上げた。

 

教会がそれぞれの〔教派の〕教理(信条)や神学の勉強よりも、真に聖書そのものを真剣に学ぶのでなければ、日本に本当にキリスト教が深く根を下ろすことはないと思う、と。

 

日本における教会と無教会〔の対話・エキュメニカルな協同〕という困難な問題も、〔共通の基盤である〕聖書を〔、互いに教義的な先入観を持ち込むことなく、〕より生(なま)のままで読むならば、自(おの)ずと解決を与えられるのではないか。

〔3-⑦〕
この点については、最近英国で出版された新しい新約聖書翻訳(新英訳聖書 New Englis
h Bible: NBE)の主張するところ、意味するところは、頗(すこぶ)る暗示的であると思います。
 

今回の翻訳、13年に及ぶ努力の結晶で、〔これまで〕350年間親しまれてきた欽定(きんてい)訳聖書に〔とって〕代わるべきものと言われ〔てい〕ます。

 

なにしろ、たいした熱の入れようで、すでに〔この〕3月14日に世界で同時発売され、ただちに増刷中と言われ〔てい〕ます。

 

英国人の聖書に対する熱心さに驚かされます。はたして日本人に、この百分の一でも、聖書に対する熱心さがあるでしょうか。

私のごとき者まで、英国から直接、大小二部のエディションが贈呈され、「今後、書評する時には連絡がほしい」とのことです。

〔3-⑧〕
私はここで、この〔翻〕訳の宣伝をしたいわけではありません。

 

私の注意を引いた点は、今回の〔翻〕訳が英国〔国〕教会、スコットランド教会、組合〔教会〕、バプテスト〔教会〕、長老教会、クェーカー等の多くの〔教派・〕教会の協同にな〔るものであ〕り、しかも何らの〔特定〕教派または教理への傾向もなく訳された、と言われていることでありまして、今後、諸教派の一致〔と協力、エキュメニズム〕が聖書における一致として可能になるのではないかと思われた点です。

 

このことは、日本における教会と無教会の問題に対して、極(きわ)めて示唆的であります。

つづく
 

♢ ♢ ♢ ♢

(出典:関根正雄「内村先生と現代」、鈴木俊郎編『内村鑑三と現代』岩波書店、1961年、37~42項より引用。( )、〔 〕内、下線は補足。文意を損なわない範囲で、表現を一部変更

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