― まごころで聖書を読む。そして、混迷の時代を神への信頼と希望をもって、力強く前進する ―
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最終更新日:2024年10月9日
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* * * *
〔 4 〕
聖書と無教会
〔4-①〕
以上のような信仰の歩みが、内村先生にとって無教会信仰の実践となったのです。
真に独創的な信仰の歩みですが、しかし実は、これこそすでに聖書によって証(あか)しされた信仰そのものです。
イエスの教えられたのが、この信仰〔なの〕です。
「私に向かって、『主よ、主よ』と言う者が皆、天の国に入るわけではない。天におられる私の父の御心(みこころ)を行う者が入るのである」とイエスは言われました(マタイによる福音書7章21節)。
「主よ、主よ」と口に唱(とな)える信仰箇条や〔その他の〕宗教〔的〕行為が、救いを保証するのではない。
ただ神を信じてその御心に従う者だけが、神の救いに与(あずか)る、との教えである。
ここでは、人間の定めるいかなる教義も儀式も救いの条件とはなっていない。ただ神への信仰的服従だけが、問題なのです。
そしてユダヤ教会(ユダヤ教団)の命ずる外面的な宗教儀式については、〔イエスは、〕「外から人〔の中〕に入って汚(けが)すことのできるものは何もなく、人の中〔、つまり人の心〕から出てくるものが、人を汚すのである」と言われました(マルコによる福音書7章15節)。
〔つまり〕外面的〔・表面的〕な宗教的誡律は〔本質的な〕問題で〔は〕なく、罪を犯す心だけが〔根本的な〕間題〔なの〕であり、〔イエスは、〕その心の悔い改めを要求されたのです。
「〔汝(なんじ)ら、〕悔い改めて福音を信ぜよ」〔と言われたとおり〕です (マルコによる福音書1章15節)。
〔4-②〕
パウロは〔、地中海世界の〕各地にキリストの教会(エクレシア)を起し、また〔エクレシアについて〕論じておりますが、しかしそれは、〔その後の教会史の伝統・しきたりによってできた〕今日のような制度的教会〔のこと〕ではありません。
「人々からでもなく、〔権威ある〕人を通してでもなく、〔すなわち人間的な命令や委任によってではなく〕イエス・キリストと、この方を死者の中から復活させた父なる神とによって〔、直接に〕使徒とされたパウロ」の信仰は(ガラテヤ人への手紙1章1節)、すでに制度としての教会を超えています。
〔内村〕先生は『ガラテヤ書の精神』の中で、パウロの信仰を次のように要約しています。
「〔人が〕キリスト者となるのは、人〔間の力、宗教の権威〕によらず、神による。彼が救われるのは、信仰(神への信頼)による。
彼の善〔き〕行〔い〕は、彼の信仰に応じて神から与えられる聖霊〔の力〕による」と(『全集』7巻322ページ、『著作集』15巻227ページ)。
これがパウロの信仰であり、また内村先生の信仰でした。
救いが神により信仰により、その生活が信仰に応じて与えられる神の恩恵〔によるのもの〕であるなら〔ば〕、そここには、人間の定める教会制度や儀式が救いの条件となる余地は、全くありません。
〔4-③〕
イエスやパウロだけでなく、旧約の預言者たちが教えるところも、同様です。
「主が喜ばれるのは、焼き尽くすいけにえ(燔祭の儀式)や会食のいけにえ(犠牲の儀式)だろうか。それは主の声に聞き従うことと同じだろうか。
見よ、心して〔主の御声に〕聞くことは、雄牛の脂肪(=いけにえ)にまさる」といい(サムエル記上15章22節)、
「主は言われる。あなたがたの〔献げる〕いけにえが多くても、それが私にとって何なのか。
私は、雄羊の焼き尽くすいけにえ(=燔祭の儀式)と、肥えた家畜の脂肪(=犠牲の儀式)に飽きた」と言い(イザヤ書1章11節)、
また「私が喜ぶのは慈(いつく)しみであって、いけにえ(犠牲)ではない。神を知ることであって、焼き尽くすいけにえ(燔祭)ではない」とあります(ホセア書6章6節、ことにミカ書6章6-8節参照)。
燔祭(はんさい)と犠牲というのは、ユダヤ教における《聖礼典》(聖なる儀式)です。
〔4-④〕
1925(大正14)年、内村先生は私たち青年に対して〔旧約聖書・〕エレミヤ書の講義をされましたが、その中で特に〔旧約の〕預言者エレミヤの無教会的信仰を強調されました。
「万軍のヤハヴェ、イスラエルの神がこう言われた。
わたしは君たちの先祖を、エジプトの地から導きだしたときに燔祭や犠牲〔の儀式〕のことで彼らに語ったこともなく、命じたこともなかった。
わたしはただ、彼らに次のことを命じて言った。
わたしの声に聞き従え。そうすればわたしは君たちの神となり、君たちはわたしの民となる。君たちはわたしの命ずるすべての道に歩め、そうすれば君たちは幸いを得ると」(エレミヤ書7章21-23、関根正雄訳)。
そして先生は言われる。
「すべてがこの類(たぐ)いである。これよりも強く儀式を無視した言葉はない。
どのような無教会信者であっても、エレミヤが〔同胞のユダヤ〕教会を攻撃した言葉以上に強い言葉を発した者はいない。
実に、エレミヤ書が聖書の内にある間は、無教会主義はキリスト者の間から絶えることはない」と。
そして、これがまた聖書の精神であり、イエスの精神であると〔先生は〕言われたのです。
「〔この〕エレミヤが解(わか)らずに、聖書は解らない。またイエス・キリストは解らない。したがって、キリスト教は解らない。
〔真の〕宗教は儀式でない。道徳〔、つまり神の前における生き方の問題〕である、信仰である。服従である」とは、特別に先生が高調したところである。
「エレミヤ書〔全〕52章を通して、一回たりとも、エレミヤによって奇跡が行われたという記事はない。また祭事、礼拝に関する儀式が示された例(ためし)は、一つも無い。
すべてが、厳格な正義の唱道である。そして預言者、彼自身がその厳格な実行者であった」と(『全集』4巻508ページ)。
以上によって、内村先生の無教会信仰が〔実は、〕聖書全体を貫く精神であることが理解されるでしょう。
〔4-⑤〕
では、どこに《教会主義》との相違があるのでしょうか。それは、以上のべたところから明白です。
要するに、教会制度に基づく聖礼典や儀式を信仰生活の〔無くてはならぬ〕必要条件と認めるか否か、の点にあります。
教会は実際的にこれを〔必要条件と〕認め、無教会はこれ(制度や儀式そのもの)を否定はしませんが、信仰生活の必要条件と〔は〕認めません。
〔4-⑥〕
とは言ってもちろん、教会の制度や儀式を無視することに無教会の本来の意義があるのではない。
無教会信仰〔の眼目〕は、反教会(教会との対立)でも教会否定でもありません。
「教会はあってはならないということではない。有(あ)っても良し、無くても良し〔。どちらでも良い〕ということ」です(「無教会主義について」、『全集』9巻224ページ、『著作集』10巻227ページ)。
無教会の積極的な意味は、〔制度〕教会に属するか否かという〔第二義的な〕問題〔に〕ではなく、イエスを信じる信仰に生きるということ、〔そして〕天にいます父〔なる神〕の御旨(みむね)に服従することにあります〔。つまり、「無くてはならぬもの」への集中です〕。
しかも、その時々に命じられる〔活ける神の〕御声(みこえ)に、今ここで聞き従うのです〔。
それは、宗教的伝統・しきたりが作り上げた《昔の人の言い伝え》や戒律=律法を墨守(ぼくしゅ)することではありません。マルコ 7:8参照〕。
「今日、あなた方が神の御声を聞いたなら」〔、聞き従うの〕です(ヘブル人への手紙3章7節以下)。
「見よ、私は今日、あなたの前に命と幸(さいわ)い、死と災(わざわ)い〔の道〕を置く。・・・あなたは命〔の道〕を選びなさい」とあるように(申命記30章15、19節)、ただちに〔神の御旨に〕服従することです。
〔制度〕教会に属するか否かは〔、根本的・死活的な〕問題ではありません。
すべて神を信じる者は神の前に立たされているのであり、そして今日、命じられる〔神の〕御声(みこえ)に聞き従うか否かが〔第一に〕問われているのです。
従う者は、神の祝福を受け、その救いにあずかります。そして〔神に従って、〕一歩一歩、自分の知らない新しい世界へと導かれる。
アブラハムの生涯、イエスの生涯、パウロの生涯、そして内村先生の生涯もそうでした。つまり神に導かれて、《神の国》にいたる生涯です。
〔4-⑦〕
これが無教会信仰の生き方です。それは反教会でも教会否定でもありません。
従来の〔制度〕教会を打倒するのが目的で〔は〕なく、その反対に〔制度教会を〕その本来あるべき姿、キリストの体である真の教会(エクレシヤ)に復帰させようとするのです。
教会の破壊でなく、その完成を目指すのです。
そして、その教会(エクレシア)の何たるかはすでに、イエス〔ご自身〕が教えらました。
「二人または三人が私の名によって集まるところには、私もその中にいる」とあるのがそれです(マタイ福音書18章20節。イエスの言葉)。
〔つまり〕イエスを中心として、そのまわりに集まる兄弟姉妹のエクレシヤ(霊的・人格的信仰共同体)です。
イエスはまた、自分の周りに集まって神の言に耳を傾ける人々を見回して言われました。
「見なさい。ここに私の母、私のきょうだいがいる。神の御心を行う人は誰でも、私の兄弟、姉妹、また母なのだ」と(マルコによる福音書 3章34-35節)。
これがイエスの親族〔であり〕、神の家族〔であり〕、また〔真の〕教会(=エクレシア)です。
これがまた、内村先生の考えられた教会でありました。
〔4-⑧〕
先生は、以上のイエスの言葉を説明して言いました。
「これがキリストの建てられる真の教会(エクレシア)である。
その中心はキリストである。そしてその周囲に集う者は、彼の名によって彼の聖旨(みむね)を実行しようと願う信徒である」と(「真個の教会」、『全集』9巻161ページ、『著作集』10巻223ページ)。
〔4-⑨〕
信徒は〔おのおの神に直結し、〕各自独立ですが、しかし個人主義者ではなく、孤立主義者でもありません。
「私(イエス)はぶどうの木、あなたがたはその枝」です(ヨハネによる福音書15章5節)。
〔この御言葉が教えるように、〕イエスを信じる者は、互いにその体である神のエクレシヤにつながるのです。
《復活のキリスト》とともに始まる《神の国》の一員となり、《神の家族》となるのです。
その会員は〔空間的、時間的な相違を超えて〕、すべてイエスを信じて神に従う全世界の、そしてまたすべての時代の兄弟姉妹から成ります。
この意味で、
「無教会は進んで有(ゆう)教会となるべきである。
しかし在来の〔制度〕教会に還(かえ)るべきではない、教会ならざる〔まことの〕教会(エクレシア)となるべきである。
すなわち〔制度〕教会を要しない者〔たち〕の霊的〔・人格的信仰〕共同体となるべきである。
〔歴史的事実として、生命力あふれた〕このような共同体が直(す)ぐにまた〔、固定化・化石化した〕教会となりやすいことは、私も充分に認める。
しかしその場合にはまた、直(ただ)ちにこれを壊すべきである。
〔地上の歴史的〕教会は生物の体と同じように〔新陳代謝によって、死んだ部分は〕永久に壊し、〔また〕永久に〔新しく〕築くべきものである。
教会もまた生物と同じように、その恐るべき所は結晶〔化、つまり新陳代謝の停止〕である〔。新陳代謝の停止は、生物にとって死を意味する〕。
無教会主義は、その一面においては、結晶〔化、化石化〕した教会の破壊である。他の一面においては、生ける教会(エクレシア)の建設である。
そして無教会が結晶〔化〕して、またいわゆる「教会」となる時には、無教会主義によってこれを破壊すべき〔である。ゼロから再出発すべき〕である。
〔生ける〕キリストの王国は、このようにして発達〔し、成長〕する。
〔それゆえ、〕私は〔神の導きに信頼し、〕安心して、大胆に進むべきである」(「無教会主義の前進」『全集』9巻216ページ、著作集10巻231ページ)。
〔4-⑩〕
終りに、もう一つ先生の文章を引用いたします。
「私に〔は、いわゆる〕教会は無い。
しかしながらキリストが〔私と共に〕おられる。そしてキリストが〔共に〕おられるがゆえに、私にもまた教会がある。
キリストは、わが教会(エクレシア)である。
彼は神が聖(きよ)いように〔完全に〕聖く、宇宙が広いように広大〔無辺〕である。
キリストが私〔と共〕におられるとき、私は完全な教会(エクレシア)に属する者である」(「我が教会」、『全集』12巻388ページ、『著作集』5巻232ページ)。
〔おわり〕
♢ ♢ ♢ ♢
(出典:石原兵永「内村先生と無教会」、鈴木俊郎編『内村鑑三と現代』120~126項より引用。( )、〔 〕内、下線は補足。一部表現を現代語化)
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