― まごころで聖書を読む。そして、混迷の時代を神への信頼と希望をもって、力強く前進する ―
We read the Bible with all our hearts. And we move forward powerfully in this era of turmoil with trust and hope in God.
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最終更新日:2024年10月9日
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聖書研究の意義
- 6人の忠実な僕たち -
〔 1 〕
〔1-①〕
F・Cグラントは『聖書の読み方』の中で、彼の友人が経験したことを述べている。
この友人は、あるグループの人々に聖書の読み方について講演していた。講演が終わるとすぐに、若い女性が起ち上がって、こう言った。
「聖書の読み方について、聞くまでもありませんわ。〔聖書の〕どこでも開いて、3節を読み、心を空(むな)しくしていれば、あとは聖霊が教えてくださいますから!」
〔確かに、〕そのような立場をとる人には、聖書の研究など〔というものは、〕存在しないのである。
〔1-②〕
偉大な〔米国の〕黒人教育者、ベンジャミン・E・メイズは、自著『反抗者に生まれて』の中で、彼の若い時代には実際、多くの黒人の間に、教育に対して偏見があったと述べている。
彼自身も教育を受けるために、最終的には自分の父親に反抗しなければならなかった。
〔なぜなら、彼の〕父親は「神は人々を宣教に召されたが、召されたときには、〔必要な場面で〕神が語ることを教えてくださる」という立場だったからである。〔つまり、〕教育や研究など必要ない、というのである。
〔1-③〕
もっとも素朴な人、もっとも教養のない人でも、まったく学問の助けなく、聖書の中に《神のことば》を見出し、生命(いのち)の力、悲しみを慰めるもの、行動のための指針を発見することはできる。
そのことは、誰も否定しない。
しかし、多くの準備をもって聖書に接すれば、それだけ多く聖書から得るものがあることも、〔また〕真実である。
〔 2 〕
〔2-①〕
何事であれ、私たちが耳を傾ける場合、ただ一つの水準(やり方)しか存在しない〔という〕わけではない。
音楽を例にとろう。
私たちは偉大な交響曲をすばらしい音の流れとしてだけ聴くことがあ〔るだ〕ろう。これは、もっとも単純な聴き方である。
〔一歩進んで、〕私たちは楽譜を学び、音楽の構造を調べることができだろう。〔それによって私たちは、〕作曲家がどのように主題を導入し、展開し、組み合わせているかを理解するだろう。
このようなことは、音楽の研究にさらに役立つのである。
〔あるいは、〕音楽を鑑賞する前に、その作曲家の人生と経験について、いくらか調べてみよう。そうすることにより、その音楽が生まれた状況がいくらか分かるだろう。
またそのことが明らかに、その音楽を〔私たち自身にとって〕より意味のあるものにしてくれるだろう。
〔2-②〕
ベートーヴェンの第九交響曲を例にとって、説明しよう。
この曲が身体を感動させ、心に語りかける音とメロディーであると〔だけ〕しか知らなくても、この交響曲を聴くことはできよう。
〔しかし〕私たちは楽譜を学び〔、そのことによって〕、それぞれの楽器の登場とそれぞれの主題の展開を予期して聞き耳を立てて、音楽の展開の形を聴くことができるだろう。
〔さらに〕演奏に聴きに行く前に、ベートーヴェンの生涯について何がしか学ぶことができる。
ベートーヴェンが第九交響曲を作曲したのは聴力を完全に失ってからであったので、彼は第九を心でしか聞いていないことを、私たちは知ることができる。
それを知って後に、この曲を聴くならば、〔私たちには〕音楽がもたらす最大の感動の一つを与えられる〔こと〕だろう。
〔 3 〕
〔3-①〕
聖書もそれに似ている。
もちろん、最も素朴な人〔でさえ〕も聖書を開いて〔そのまま〕読むことができる。しかし聖書を〔広く、深く〕知れば知るほど、聖書は〔より〕感動的で魅力的なものとなる。
キップリングは、自身の詩に次のように書いている。
私には6人の忠実な僕(しもべ)がいる
(私が〔今〕知っていることはすべて、彼らが教えてくれたのだ)
その僕〔たち〕の名は、 何が なぜ いつ
どのようにして どこで だれが である。
F・J・A・ホートは、自著『ペテロの第一の手紙概論』の冒頭で、次のように記している。
「一冊の書物を正しく理解するために、誰がそれを書いたか、誰のために書かれたか、どんな目的で書かれたか、どのような状況下で書かれたか、を私たちは知りたいと思う」。
言い換えるならば、私たちがどれか一冊の本を、また聖書を、真剣に、十分に学びたいと思うならば、キップリングのいう〈6人の忠実な僕〉を呼び入れる必要があるのである。
〔 4 〕
〔4-①〕
以下、〔大切な〕問題点のいくつかを取り上げてみよう。
誰が語るか、はとても大切である。
あるとき、私はコンサートに出かけた。〔コンサートの中で、一人の〕バリトン歌手が登場し、ヘンリーの『打ち勝ちがたきもの』を歌った。
わたしをおおう夜の闇
〔船の〕マストからマストまで真っ暗闇の中で、
おいでになるどんな神々にも わたしは感謝しよう
わたしの打ち勝ちがたき魂のゆえに
歌い終わって歌手が舞台を去ろうとしたとき、私は、彼が入場したときには気がつかなかったことに、突如、気づいた。
彼は、目が不自由だったのである。目の不自由な人がその曲を歌い得るとき、事情は〔全く〕別〔のものとなるの〕である。
〈ローマ人への手紙〉にこう書かれている。
「神を愛する者たち、つまりご計画に従って召された者たちには、万事が働いて益となるということを、私たちは知っています」〔ローマ 8:28〕。
これは寒風に一度ども曝(さら)されたことのない人が語っても、大して印象に残る言葉とはならないだろう。
しかし、この言葉を語った人〔パウロ〕は、針のひと刺し〔どころ〕ではなく、杭(くい、スコロプス)が体の中で廻り、ねじれるような、苦痛に満ちた生涯を送った人であった(第二コリント 12:7)。〔そのパウロが、この言葉を語ったのである!〕
〔パウロが語ったように、〕人は〔その生涯において〕苦しみから解放されることがなかったとしても、神がすべてを益(えき)としてくださる〔のだ、という〕経験をすること-これが大切である。
〔 5 〕
〔5-①〕
いつ語られたか、はとても重要である。
〔預言者〕イザヤが〔召命の〕幻(まぼろし)を見たのは、「ウジヤ王が死んだ年」-悲劇の年〔、紀元前740年〕であった(イザヤ 6:1)。
ウジヤは、偉大な良君であった。
しかし彼は不注意にも、〔祭司以外には許されていない行為-〕神殿〔の祭壇〕で自ら焚(た)こうとしたため、その場で〔神に撃たれて、重い〕伝染性皮膚病(レプラ)になった。
そして王の華麗(かれい)な生涯は、晩年、みじめな離宮でその幕を閉じたのである(列王記下 15:1~5、歴代誌下 26:16~21)。
ジョージ・アダム・スミス(英国の旧約聖書学者)が述べたように、「王は、伝染性皮膚病の人の墓に埋葬されたが、イザヤの幻では、神の威光につつまれてよみがえった」。
幸せな時に神の幻を見ることは、言うまでもなく素晴らしいことであろう。
しかし、全く悲劇におおわれているときに、神の〔栄光の〕幻を見ることは、どれだけ素晴らしいことであろうか。
そして、イザヤはそのような経験をしたのであった。
〔 6 〕
〔6-①〕
どこで語られたか、はとても大切である。
パウロが語った偉大な言葉の一つが、コリント人への手紙の中にある。〔それは、次の言葉である。〕
「淫(みだ)らな者、偶像を礼拝する者、姦淫する者、男娼となる者、男色(なんしょく)する者、盗む者、貪欲(どんよく)な者、酒に溺(おぼ)れる者、人を罵(ののし)る者、奪い取る者は、神の国を受け継ぐことはありません。あなた方の中には、〔以前は〕そのような者もいました」(第一コリント 6:9~11)。
コリントの町には、〔恋愛と美の女神・〕アフロディテの神殿があった。そこには、千人の女祭司がいた。彼女たちは〔同時に〕神殿娼婦でもあり、毎夕、町の通りに現れ、仕事に精を出したのである。
そのためギリシャ人たちは、「だれもが、コリントに〔神殿参拝と買娼〕旅行できるほどの金持ちのわけではない」ということわざを持っていたほどである。
〔また、〕劇では、酩酊(めいてい)して登場しないコリント人はいなかった、と一般に言われていた。
〔さらに、〕「コリンティアゼスタイ」というギリシャ語の動詞があったが、これはコリントという〔地〕名に由来し、「飲んで騒ぐ」ことを意味している。
〔コリント人への〕手紙は、「コリントにある神の教会へ」というあいさつから始まっている(第一コリント 1:2)。
「コリントにある神の教会」は-ベンゲルの註釈によれば、「途方もなく幸いな逆説」である。
神の恵みが力強く働いたのは、〔大都市の〕上品な郊外といった地域ではなかった-それは〔風俗の乱れきった〕コリントにおいてであった〔のである〕。
〔 7 〕
〔7-①〕
〔聖書の〕小さな事件の前後関係が少し確定してくると、その事件を〔正しく〕理解するための新しい光が射してくることが、しばしば起こる。
ヤコブとヨハネ、また彼らの母親が、イエスに、〔二人を神の〕王国において高い地位につけるよう保証を求めた事件を例にとろう(マタイ 20:20~21、マルコ 10:35~37)。
この事件は、弟子達が〔イエスの《神の国》運動を〕世俗的野心や、世俗的王国の関連でしか考えられなかった実例として、しばしば引用される。
〔確かに、〕そうかもしれない。しかし、それには、さらに深い意味がある。〔実は、〕福音書の物語の中で、この事件は、信仰の最も偉大な実例のひとつなのである。
〔この時、〕イエスは〔一路、〕エルサレムに向かっていた。
ユダヤ当局との正面衝突は、不可避であった。イエスは、〔自らの〕前途(ぜんと)に待ち受ける《十字架》について彼らに繰り返し語った。
しかし、先ほどの願いを申し出たヤコブとヨハネは、イエスが最後に勝利するとしか考えられなかったのである。
〔確かに〕それは、野心から出た要求だったかも知れない。しかし、それは同時に、〔たとえ〕黒雲が濃くなりゆくとも、イエスは〔決して〕揺るがないという信仰(信頼)を持った者たちの求めでもあったのである。
〔 8 〕
〔8-①〕
〔私は〕誰でも聖書を読むことができる、ということは否定しない。
しかし聖書を読むだけでなく、聖書を研究することによって、聖書は新しい光をもって輝き出すに違いない。
誰が語ったか。いつ語ったか。どこで語られたか。これ〔が分かること〕によって、〔事件の〕様相が異なってくるのである。
〔 9 〕
〔9-①〕
本書〔『新約聖書案内』〕では、新約聖書をまとめて研究する。わたしが〔本書で〕用いようとしている方法は、次のようなものである。
新約聖書の各巻には、一つの基本的で、〔中心的・〕支配的な思想(真理)を見出すことができる。また各巻には、それぞれ〔が〕告げようとしている一つの特別な事柄を見出すことができる、という〔も〕のである。
もちろん、もっとも短い、もっとも素朴な文書にも、多くの思想(真理)が盛られている。
しかし、新約聖書各巻の中心点には、〔文書〕全体の起動因となる一つの思想(真理)がある。
それゆえ、本書では新約聖書を調べて、各巻が言わんとする大事な一点を見出したい。その後、その〔中心的・〕支配的な真理の光によって各巻を読みたい。・・
♢ ♢ ♢ ♢
(ウイリアム・バークレー著、高野進訳『バークレーの新約聖書案内』、ヨルダン社、1985年、「序論」から引用。読みやすくするため、一部文章を改変。読みやすくするため一部表現を改変。ルビおよび( )、〔 〕内、《 》、〈 〉、下線は補足)
注1
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