― まごころで聖書を読む。そして、混迷の時代を神への信頼と希望をもって、力強く前進する ―
We read the Bible with all our hearts. And we move forward powerfully in this era of turmoil with trust and hope in God.
■上の「ネットエクレシア信州」タッチでホーム画面へ移動
Move to home screen by touching “NET EKKLESIA” above.
最終更新日:2024年10月9日
■サイト利用法はホーム下部に記載
聖書に学ぶ 016
2022年4月17日改訂
原著:藤井 武
現代語化:タケサト・カズオ
詩篇研究
朝のいのり ⑵
詩篇 第3篇
関連リンク Related Links
■讃美歌「いさおなき我を」
日本語(注3)
英 語
合唱
☆「Just As I Am , Without One Plea 」YouTubeへ
男声一人四重唱
☆Acapeldridge「Just As I Am 」YouTubeへ
■讃美歌「神はわがやぐら」M.ルター、1529年
日本語
ドイツ語
☆「Ein feste Burg ist unser Gott」YouTubeへ
英 語
* * * *
朝のいのり
詩篇第3篇
〔つづき〕
Ⅲ わたしは目覚めた(注1 原文へ)
6.わたしは伏(ふ)して眠り、また目覚(さ)めた。
ヤハヴェがわたしを支えたもうから。
7.わたしは恐れない、わたしに向かって
四方から襲いかかる数知れぬ人々をも、決して。
〔3-①〕
〔神〕ヤハヴェがおられる。それで十分である。
何がどうなっても良い。〔たとえ、〕世界が壊れても良い。ヤハヴェさえ生きておられれば、問題はない。
〔最終的に神ヤハヴェは、悪の力と人類の罪に完全に勝利し、すべての問題、すべての争い、すべての痛みを根源的に解決して、この世界-宇宙-を完成させてくださるであろう。
それゆえわれらは、いかなる状況にあっても決して希望を失うことなく、勇躍(ゆうやく)して歴史の中を前進するであろう。注2〕
〔3-②〕
猟師に追われる獣(けもの)のようにダビデは〔、王宮を捨てて〕逃げた。一夜は、不安のうちに過ぎた。
しかし次の夕のめぐり来るまえに、大洋のよう〔に、広く大き〕な平安が彼の胸をおおった。
その夜(よ)、ヨルダンの彼方(かなた)の野に、草を褥(しとね)に彼はうち伏した。
ただちに彼は眠りにおちいった。夢はエルサレムの宮居におけるよりも円(まろ)やかであった。
夜は明けた。ダビデは物忘れした人のように目覚めた。
〔そのとき、〕美(うる)わしき朝の野霧のほかに、彼の心にかかる曇りとてはなかった。
今生まれた身かとばかりに、彼自身、不思議に思った。
ようやく想い起こしてみれば〔実は〕、恐るべき〔滅びの〕深淵の縁(ふち)に自分は横たわっているのであった。
この境遇における〔、この〕平安。
何という不思議な配合(コントラスト)であろう。
それも、そのはずである。ヤハヴェがいますからである。ヤハヴェの大いなる聖手(みて)が枕となって、自分を支えたからである。
この力強き支えの存(あ)るかぎり、一万一千の民が自分を囲んで立ち構えても、何の恐るべきことがあろうか。
こうして前日の怯(おび)〔える〕者ダビデは一変して、〔今日〕ここに、恐怖(おそれ)を知らぬ勇者(ますらお)であった。
〔3-③〕
信頼する者は、〔すべてを〕委(ゆだ)ねる。
夜ごとに私は一切の荷物を大風呂敷(おおぶろしき)に包んで〔「すべては神様におまかせ済み」の札を貼り、〕彼の聖手(みて)にお預けし、自分は全く問題無しの裸の身となって寝床に横たわる。
宵(よい)越しの苦労は私にはない。
それゆえ、朝(あした)に目覚めるとき、讃美が私の〔想いを占める〕唯一の意識である。
私もまた、ダビデに声を合わせて言う、
「わたしは伏して眠り、また目覚めた。
ヤハヴェがわたしを支えたもうから」と。
Ⅳ み民のうえにこそ、みめぐみ
8.起ち〔上がり〕たまえ、ヤハヴェよ。
わたしを救いたまえ、わが神よ!
あなたはわがすべての敵の頬骨(つらぼね)を撃ち、
悪(あ)しき者の歯を折られた。
9.ヤハヴェにこそ、救済(すくい)はある。
〔あなたの〕み民の上にこそ、み祝福(めぐみ)を下したまえ。
〔4-①〕
朝(あした)の讃美はおのずと、朝の祈祷(いのり)へと移る。
そして、祈祷は前後の二段に分かれる。前半は単純な願望であり、後半はむしろ祝福である。
ダビデは今生まれた嬰児(みどりご)のような平安をもって、目さめた。讃美のこころが胸を満たした。
しかし、やがて気づいてみれば、彼は狼(オオカミ)に追われる羊の身である。
〔ゆえに、彼は〕この現実の戦闘について、神に勝利を呼び求めざるを得ない。
すなわち、昔のイスラエルの進軍の叫びに倣(なら)って、彼は〔神に〕呼ばわった。
「起ち〔上がり〕たまえ、ヤハヴェよ・・・」と(民数記10:35)。
ダビデはふたたび、戦闘の心理に入った。
〔4-②〕
戦闘の心理である。
しかしそれは、勝敗未決の不安な戦闘ではない。勝利はダビデ〔の側〕に定まっている。
〔なぜなら、〕彼に代わって戦う者は神〔ご〕自身だからである。
神はすでに幾たびか、事実によってそれを証明してくださった。
過去の幾〔つもの〕戦闘においても、ダビデはしばしば、甚(はなは)だしい危機に立った。敵は野獣のように頬を高め、歯をそらせて彼に迫った。危(あやう)く彼は〔敵に〕呑(の)まれそうになった。
しかし、讃(ほ)むべきことに、神は彼に代わって敵の頬骨(つらぼね)を撃(う)ち、その歯を折り砕いてくださった。
こうして〔神は〕、彼が敵の歯に渡され、噛(か)み食(く)われることをお許しにならなかったのである。
歴史は預言である。〔過去の〕経験は〔、未来に対する〕希望である。
ダビデは過去の事実(=恩寵の経験)のゆえに、来るべき勝利を信じた。
〔4-③〕
ここにおいて、彼の心は広やかに張り開いた。
一つ、また二つと偉大な事実が、讃美のごとく、〔また〕祝福のごとく彼の唇に湧(わ)きあふれた。
第一は、「ヤハヴェにこそ、救済(すくい)はある」との言葉である。
救済はただ、ヤハヴェにこそ〔ある〕。その一から十まで、そのアルファ(α)からオメガ(ω)まで、〔救済は〕すべてヤハヴェに〔のみ〕ある。われら自身の側には、全くない。
そして、その故(ゆえ)にこそ〔かえって〕、われらの救済は確実なのである。
〔救われるために、〕私は少しも自分の〔当てにならない〕功績に頼る必要はない。かえって、それらしきものをかなぐり棄(す)てて、ひたすら神に信頼すれば〔それで〕よい。
神は、ご自身の至高の義と限りない憐れみとによって、私を救ってくださるのである。〔これは、〕実に偉大な真理である。〔まさに〕福音そのものである。
〔4-④〕
第二は、「〔あなたの〕み民の上にこそ、み祝福(めぐみ)を下したまえ」との言葉である。
もし救済〔の根拠〕がヤハヴェ〔のみ〕にあるとすれば、彼の〔創造された〕民の〔内、一体〕誰が救いから漏れようか。
〔神の〕み恵みは普(あまね)く、万民(ばんみん)の上にあるであろう。そして、またそうありたい〔。私は、神の広大無辺な慈愛と救済力に心から信頼する〕。(注3)
私は、自分だけが福(さいわ)いに与(あずか)りたくはない。〔また、〕自分の愛する〔範囲の〕者だけが救われることを望まない。
私は敵と共に〔神の〕祝福に与りたい。これが私の究極の願いである。
キリストが、私の胸にこの願い(=敵をも含む、万民救済の希望)を入れ〔てくださっ〕たのである。
私の心は本来、〔自己中心かつ利己的で〕冬枯(が)れのごとくであった。しかし、キリストは〔限りなき慈愛の〕光によって〔私の〕心を温め、〔聖霊の〕油によって心を和(やわ)らげ〔てくださっ〕た。
多くの詛(のろ)い〔の思い〕が私〔の心〕から消え失(う)せた。〔その結果、驚くべきことに〕今や私は、詛いなき人である。
キリストのゆえに、私はすべての敵を赦すことができる。私はダビデと共に、彼らために祝福をいのる。
そして祝福をいのるとき、われながら、なんと神の子らしいことか。
讃美すべきかな、ヤハヴェの聖名(みな)は!
〔完〕
♢ ♢ ♢ ♢
(原著:藤井武「朝のいのり(詩篇 第3篇)」『旧約と新約』第92号、1928〔昭和3〕年2月。「藤井武全集 第4巻』岩波書店、1971年、97~100項を現代語化。( )〔 〕内、下線は補足)
注1 真実なる魂の叫び、キリストの香り
閲覧者各氏が藤井の神に対する真実なる魂の叫びと彼の人格に匂うキリストの香りに触れていただくことを願い、以下に原文の一部を引用する。
原 文
3 われ目さめたり
5.我(われ)はうち臥(ふ)し、しかして眠りぬ。われ目さめたり、そはエホバ我を支へたまへば。
6.われは恐れじ、一万の民の我にむかひて、かこみ、立ちかまへたるものをも。
エホバはいます。然(しか)らば足(た)れりである。何がどうなっても善(よ)い。世界が壊(こぼ)れても善い。エホバだに生きていませば、問題はない。
猟師に追われたる獣(けもの)のやうにダビデは逃げた。一夜は不安のうちに過ぎた。しかし次の夕のめぐり来るまへに、大洋のごとき平安が彼の胸をおほうた。
その夜ヨルダンの彼方(かなた)の野に、草を褥(しとね)に彼はうち臥した。ただちに彼は眠におちいった。夢はエルサレムの宮居(きゅうきょ)におけるよりも円(まろや)かであった。
夜は明けた。ダビデは物忘れしたる人のやうに目さめた。美(うる)はしき朝の野霧のほかに彼の心にかかる曇りとてはなかった。今生まれし身かとばかり、みづから彼は怪(あや)しんだ。
やうやく想い起こして見れば、恐るべき深淵(しんえん)の縁(ふち)に自分は横たわってゐるのであった。
この境遇における平安、何といふ不思議なる配合であらう。
それもその筈(はず)である。エホバがいますからである。エホバの大いなる聖手(みて)が枕して自分を支へたからである。
この力強き支への存するかぎり、一万千万の民が自分を囲んで立ちかまへるとも、何の恐るべき事かあらう。かくて前日の怯者(きょうしゃ)ダビデは一変して、ここに恐怖(おそれ)知らぬ勇者(ますらを)であった。
信頼する者は委任する。夜ごとに私は一切の荷物を大風呂敷に包んで彼の聖手(みて)にお預けし、自分は全く問題無しの裸の身となりて寝床に横たはる。宵(よい)越しの苦労は私にない。
この故に朝(あした)に目さめるとき、讃美は私の唯一の意識である。私も亦(また)ダビデに声を合せていふ、
「我はうち臥し、而(しか)して眠りぬ。われ目さめたり、そはエホバ我を支へたまへば」と。
(『藤井武全集 第四巻』岩波書店、1971(昭和46)年、「詩篇研究 朝の祈り(詩篇第三編)97~98項より引用。( )のルビは補足)
注2 イエス・キリストの信仰と福音
注3 万民の救済者イエス・キリスト
「〔カール・〕バルトによれば、イエス・キリストにおいて啓示された神の〔救済〕意志は、『その意図によれば、すべての人間が救われることを目指しているし、その能力に従えば、すべての人間の救いにとって十分なほど力強いのである』。・・・(バルト『教会教義学』第Ⅱ巻 第2分冊「神の恵みの選び」吉永正義訳、新教出版社)
内容的にみれば、彼の言っていることが万人救済説に限りなく近いことは否定できない。
この点に関連して、興味深いバルトのユーモアを紹介しておこう。
あるときバルトは、万人救済説に立つ敬虔主義者と話し合った。
自分は万人の救済〔説〕を信じているという彼の主張にたいして、バルトは答えた。
「いいえ、万人救済〔という一般的原理や教義〕が存在するのではありません。彼(イエス・キリスト)が〔万民に救済を〕あたえてくれるのです(es gibt keine Allversöhnung, aber er gibt.)。
私は〔、原理や法則、教義としての〕万人救済〔説〕は信じませんが、万人の救済者イエス・キリストを信じます」と(E.ブッシュ『信仰の朗らかさ』1986年)。
これは、ドイツ語の非人称主語(「es それ:万人救済説」と「er 彼:イエス・キリスト」)を取り替えたバルトの当意即妙のユーモアなのだ!」
(解説「『福音的キリスト教』精読の手引き」〔宮田光雄〕、高倉徳太郎著『福音的キリスト教』新教出版社、2014年、247~248項より引用。( )、〔 〕内は補足)
注4 讃美歌「いさおなきわれを」
讃美歌 271番
いさおなきわれを
Just as I am , without one plea
作詞:シャルロッテ・エリオット
作曲:ジョージ・J・エルベイ
Lyrics by Charlotte Elliott (1836)
Music by George Job Elvey(1849)
日本語歌詞
1.
功(いさお)無き我(われ)を 血をもて贖(あがな)い、
イエス招き給(たも)う、み許(もと)に我行(ゆ)く。
2.
罪咎(とが)の汚(けが)れ 洗うに由(よし)なし、
イエス清めたもう、みもとにわれゆく。
3.
疑いの波も、恐れの嵐も、
イエス静めたもう、みもとにわれゆく。
4.
こころの痛手に 悩めるこの身を
イエス癒(い)やしたもう、みもとにわれゆく。
5.
頼りゆく者に 救いといのちを
イエス誓いたもう、みもとにわれゆく。
6.
いさおなき我を かくまで憐(あわ)れみ、
イエス愛したもう、みもとにわれゆく。
語注1 「功(いさお)」
功績、手柄(てがら)、立派な働き。
語注2 「贖(あがな)う」
罪を償(つぐな)う。
聖書では「〔キリストがその十字架により、〕罪過(ざいか)の重荷からすべての人を解放し、救う」ことを意味する。
(参考文献:山谷省吾ら監修『旧新約聖書神学辞典』新教出版社、1961年、17項)
語注3 「咎(とが)」
人からとがめられるべきこと。責められるような行為。過(あやま)ち。過失、罪科(ざいか)。
語注4 「由(よし)なし」
由:かかわりを持つための手段・方法。
由なし:手段・方法がない。
洗うに由(よし)なし:
洗い落とそうとしても、そのための手段・方法がない。洗い落としようがない。
語注5 「かくまで」
これほどまで。
【ご注意】
PC画面で、上記の紫字の曲名をクリックしてもYou Tubeが開けない場合
①上記の紫字曲名を右クリックし、
②表示されたメニューの中の「新しいウィンドウで開く(W)」を選択してください。
- 016-