― まごころで聖書を読む。そして、混迷の時代を神への信頼と希望をもって、力強く前進する ―
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最終更新日:2024年10月9日
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2. 無教会のエクレシア観
〔2-①〕
内村は教会論に関する〔体系的な〕神学的著作を書いていない。
たしかに、彼は、さまざまの箇所で教会の問題に触れてはいる。それらは〔表面的には〕一致しないことが稀ではなく、じっさい、部分的には互いに矛盾している。
しかし、われわれは、そこから、無教会精神の二、三の基本的特徴を引き出すことができる。
注目すべきことに、内村は、すでに早く札幌時代に、彼のクラスメートとともに信徒のみからなる日本最初の自由な独立教会を建設した。
〔2-②〕
「われわれは、ナザレのイエスにおいて、大工の子でありながら人類の救い主である人を見たのだ。
ゆえに彼の小さき弟子であるわれわれも、農夫、漁夫、工人、製造業者であると同時に平和の福音の宣伝者であり得るのである。一介の漁夫だったペテロや、天幕製造業者にすぎなかったパウロが、われわれの模範である。
〔われわれは、〕キリスト教を、聖職階級制度とか教会主義のようなものだとは、かつて考えたこともなかった。
キリスト教は本質的に平民の宗教だと思っていたから、われわれが《この世の人》であることは、われわれが説教者たり伝道者たる上に何の障害ともならなかったのである(1)」。
ここには、すでに無教会運動の萌芽を認めることができる。
〔2-③〕
《無教会》という言葉そのものが初めて現われたのは、『基督(キリスト)信徒の慰め』(1893年)においてのようだ。
この言葉の意味する内容については、たとえば『無教会』というタイトルをもつ内村の小さな雑誌の中で、彼は、「教会の無い者の教会・・すなわち家の無い者の合宿所とも言うべきもの」というように説明している。
彼は、日本人の多くが教会によって幻滅を味わい、その後、キリスト教そのものから遠ざかっていくのを見た。
当初、彼は、これらの人びとのため、この雑誌を発刊しようと思い立った。彼は、自己の《教会》について、ユニークな言葉で表現している。
〔2-④〕
〔まこと《教会》は、〕「人の手をもって作った教会」とは異なり、
「その天井は蒼穹(あおぞら)であります。その板に星がちりばめてあります。
その床は青い野であります。そのたたみはいろいろの花であります。
その楽器は松のこずえであります。その楽人は森の小鳥であります。
その高壇は山の高根でありまして、その説教師は神様ご自身であります」(「無教会論」1901年)と。
この詩人的表現の中に、人は預言者の次の言葉を思い起こすであろう。
「主はこう言われる、『天は私の王座、地は私の足台。あなたがたが私のために建てる家はどこにあるのか。私の憩う場所はどこにあるのか』」(イザヤ 66:1)。
〔2-⑤〕
内村は、この《無教会》の無という字をたんに「ナイ」と呼ぶべきもので、けっして「無にする」とか「無視する」とかいう意味ではない、と説明している。
けれども、この言葉は、たんに消極的な概念に尽きるものではない。
むしろ、それは、パウロがかつて明瞭に言い切ったように、「人々からでもなく、人を通してでもなく〔、イエス・キリストと、・・父なる神によって〕」(ガラテヤ 1:1)という積極的な逆説を含んでいるのである。
〔2-⑥〕
内村は、《教会》という言葉のもとに、本来、客観的な施設を理解した。
そこでは、聖職者、礼典、信条、そしてなかんずく教会組織に所属することが救いにとって不可欠であるという排他性要求をもって、自己の歴史的連続性を保証しようとつとめられている。
内村によれば、これは、けっして《キリストの教会》、つまり、新約聖書におけるエクレシアではない。
それに代わって、彼は「真正(ほんとう)の教会」を建設しようとする。しかし、この真の教会の固有性は何か。
それは、二人あるいは三人〔が〕キリストの御名のもとに集められ、その只(ただ)中にキリストが立ちたもう「霊的団体」にほかならない。
それは、キリストの御心(みこころ)をわがものとして、キリストの御足(みあし)の跡(あと)に従うために、キリストによって召し集められたものの団体である。
〔2-⑦〕
内村は、マタイによる福音書第16章18節のイエスの言葉を「われ、わがエクレージヤを家庭として建てん」と訳し、次のように注釈している。
「規則によるにあらず、法律によるにあらず、・・愛の信仰を基礎として」家庭に類する信仰者の「兄弟的団体」を建てよう、と。
すでに原始キリスト教は、個人の家庭にエクレシア(家の教会)が存在した多くの実例を知っていた。
そればかりではなく、キリストの教会は、この世の中に広がり、じっさい、目にみえない「霊的有機体」として《宇宙的》拡がりをももっている。
そのかしらはすでに天にのぼって父〔なる神〕の右に座し、その身体もまた彼と共に死んでよみがえったものである(「エクレージヤ」1910年)。
〔2-⑧〕
これこそ、まさに《無教会》であり、「教会ならざる教会」(「無教会主義の前進」1907年)と呼ばれる。この言い方は、いわゆる教会ではなく、真の教会が問われていることをわれわれに教える。
それゆえ、この定義の方が、「教会の無い者の教会」という当初の〔無教会の〕定義よりも、批判的=革新的意味をもち、いっそう積極的な契機をふくんでいる。
〔2-⑨〕
内村は、伝統的な教会にたいして、それほど破壊的であろうとはしなかったように思われる。
彼は、在来の教会の自由と平和とを妨げてはならない、また無教会運動を教会内で説いてはならない、と忠告している。「彼はパウロのごとくに異邦人の中に行くべきである」(「無教会主義の前進」)。
いずれにせよ、無教会運動は、在来の教会と正面から対立し競争しようとするアンティテーゼではない。
それは、むしろ、真のエクレシアとして在来の教会を止揚(しよう)するものであり、「こわすように見えて実は建てるもの」(「無教会論」)なのである。
〔2-⑩〕
内村は、その遺稿の中で、彼の《無教会》が古い主義に対立する新しい主義、つまり、教会批判のための主義ではなかった、と記している。
むしろ、それは、人間の救いが律法のわざによらずキリストにたいする信仰によるという信仰の帰結として生まれたものであった。
それゆえ、彼は、「この福音が、教会をこぼつべきはこぼち、立て直すべきは立て直すであろう」ことを確信した。
彼にとって、十字架の信仰こそつねに第一のものであり、《無教会主義》は〔その結論としての主義であって、〕第二、第三のものであった。
じっさい、彼は、こう書くことさえできた。「教会は腐っても、・・私はその内にとどまりたもう聖霊のゆえに、教会を尊敬せざるを得ないのである」と。
〔2-⑪〕
彼がくり返し批判してやまなかったのは、《教会的精神》であった。
それは、生きた信仰よりも形式的制度を優先させ、「勢力団体」として社会の中で自己の影響力を拡大しようとするものである。ここでは、教会は「〔死せる〕信仰の化石」(「無教会主義について」1927年)である。
この点において、内村が自分の先駆者として、ブルジョア化した〔デンマーク国〕教会を激しく批判した〔思想家〕キルケゴールの名前をあげているのは、うなずかれるであろう。
〔2-⑫〕
このようにして、「無教会主義はその一面においては、結晶〔化〕せる教会の破壊である。他の一面においては、生ける教会の建設である」(「無教会主義の前進」)。
まさにそれゆえに、内村は、注目すべきことに、無教会運動の「前進」について、こう付言した。
無教会運動が自分の側でも教会的精神をもって自己の社会的勢力を拡大しようと考え、それによって一個のセクトに堕するようであれば、それは《無教会》精神をもって自己自身を批判し、破壊しなければならない、と。
〔2-⑬〕
内村は、きわめて現実主義的であり、「人は何びとも生まれながらにしてカトリック教徒である。教会的精神は人の天然性である」(「教会的精神」1930年)ことを、はっきり知っていた。
彼は、預言者的洞察をもって無教会運動の危険を見通し、かつ警告した。
それは、本来、真のエクレシアを実現するはずでありながら、いつの日か硬化した教会となりうるかもしれない、と。
〔2-⑭〕
しかし、無教会運が内村によって始められた一個のセクトであったならば、〔セクトを存続させるために〕おそらく彼自身が自己の後継者を指定したことであろう。
彼は、生けるキリストの教会においては〔本質的に、生けるキリストご自身が信徒個人とエクレシアを教え導くのであって、固定化した無教会的〕教理の伝統の担い手を指定することは不可能であると考えた。
彼は、自分の後継者を指名することなく、神から受けとったすべてのものを神に帰し〔、すべてを神の御手に委ね〕て、この世を去った。
彼の遺稿の末尾にはこうある。
「私は〔、教会か無教会かという〕教会問題には無頓着なる程度の無教会主義者である。〔無教会的「教会」を含め〕教会という教会、〔無教会「主義」を含め〕主義という主義はことごとくこれを排斥する無教会主義たらんと欲する。
「なぜなら、〔私は〕あなた方の間でイエス・キリスト、それも十字架につけられたキリスト以外、何も知るまいと心に決めていたからである」(コリント一 2:2)」。
原注
(1)K.Uchimura,Wie ich ein Christ wurde,1923,S.39.
〔続く〕
♢ ♢ ♢ ♢
(出典:『宮田光雄思想史論集 3 日本キリスト教思想史研究』創文社、2013年収載の論文「3 無教会運動の歴史と神学」85~89項。ルビおよび〔 〕内、下線は、サイト主催者による補足)
*以下は、サイト主催者による付加注。
付注1
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