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茨の冠を被せられるイエス

Jesus wearing the crown of thorns

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事実、〔イエス〕ご自身、試練を受けて苦しまれたからこそ、試練を受けている人たちを助けることがおできになるのです。

​(ヘブライ 2:18)

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イエスが歩まれた道

​W・バークレー

D・L・ムーディー(Dwight Lyman Moody、1837年-1899年、米国の大衆伝道者)は、歯に衣(きぬ)着せぬ物言いで知られていた〔が、次のような逸話(いつわ)が伝えられている〕。


あるとき、一人の男がムーディーの集会に現れ、ヤジを飛ばしたり、無礼を働くなど様々な妨害をして、集会をぶち壊そうとした。

そして集会が終わると、その男はムーディーの所にやってきて、〔彼に〕握手を求めたのである。


そこでムーディーはこう言った。
最後の晩餐で、イエス・キリストは〔自分を売った弟子の〕イスカリオテのユダと共に食事をなさった。だからわたしも、君と握手せねばなるまい」と。


彼の言葉の背後には、大きな真実が横たわっている。

それは、たとえ私たちが神のために忍耐し、かつ受け入れるべき苦しみがどんなに大きかったとしても、イエスが受けた苦しみは、それよりも遙(はる)かに大きかったという真実である。

イエスは、侮辱(ぶじょく)と中傷を受け入れねばならなかった。


イエスは、社会から見下され、のけ者にされている人々の所へ行き、彼らと食事を共にした。

 

それを見た〕人々は、イエスを「大食漢(たいしょくかん)で大酒飲み」と言い、また「取税人(しゅぜいにん)と罪人(つみびと)の仲間」と呼んだのである〔ルカ 7:34参照〕。

 

そこには、「あんな連中と付き合っているようでは、どうせろくな奴じゃない」との〔侮蔑の〕意味が込められていた。


わたしたちも時に、侮辱や中傷を受けることがある。

しかし、人からどんなことを言われたとしても、イエスはもっとひどいことを言われたのだ-罪を知らない唯一の人であったのに-ということを、思い起こそうではないか。

◆イエスは、裏切りを受け入れねばならなかった。


友に裏切られた人間がいるとすれば、イエスこそ、まさにその人であった。

 

彼がユダヤ当局に捕らえられ、死に渡されようとした時、つまりイエスへの〕友情が最も必要なとき、忠誠が無限の価値を持ったであろうときに、彼の友はみな、〔クモの子を散らすように〕イエスを捨てて逃げてしまったのである。


わたしたちも時折、友人たちに失望させられることがある。また友人たちに不誠実なことをされることがある。約束や誓いを破られることもある。

 

それによって、私たちの心は傷つけられる。しかし、それはまだ決定的なものとはいえない。


そのようなことが〔わが身に〕起こったら、イエスもまた同じことを経験された、友の一人〔、弟子のユダ〕によって裏切られ、死に渡されたのだ、ということを思い起こそうではないか。


私たちがどれほど辛(つら)いことに見舞われても、それよりもはるかに辛いことをイエスは経験された。

それでもイエスは最後まで、彼ら〔弟子たち〕をわが子のように愛し、最後まで愛しぬかれたのである。


イエスの至高(しこう)の誠実は最悪の不誠実によって報(むく)いられた〔。

私たちはこのことを心に刻(きざ)もうではないか〕。

◆イエスは、忘恩(ぼうおん)を受け入れねばならなかった。


イエスが〔不当な〕裁判で死刑の判決を受け、引き回されて、十字架にかけられたとき、イエスに〔よって〕養われ、癒(い)やされ、また死から救い出された何百、何千という人たちは、いったいどこへ行ったのか。
 ・・・
イエスほど多くの〔大切な〕ものを人々に与えた人間はいない。

ところが本当に必要なときに、彼のために弁護し、勇気をもって立ち上がり、また彼の傍(かたわ)らに寄り添った人は一人もいなかったのである。
 

◆イエスは、誤解を受け入れねばならなかった。


イエスの宣教の始めから終わりまで、弟子たちは明らかに、彼の言うことを真に理解していなかった

 

弟子たちは常に利己的で、野心に満ち、互いに妬(ねた)んだり、うらやんだりしていた。〔彼らは〕イエスがなぜ死ななければならないか〔について、全く〕理解できず、復活の教えに至っては、受けつけることさえしなかった。


わたしたちも、自分は誤解されていると思うときがある。自分はしっかりした見解を持っているのに、誰も耳を貸してくれないといって嘆(なげ)く。
 

そのようなときには、イエスほど人々に誤解された人はいない、しかも彼はそれを恨(うら)んだり、そのために絶望することはなかった、ということを思い起こそうではないか。

◆イエスは、不当な苦しみを受けねばならなかった。


イエスほど、受ける必要のない苦しみを受け、また彼ほど恐ろしい苦しみを受けた人は他にはいない。


彼は何も悪いことはしなかった。ただ、人びとを愛し〔ぬかれ〕ただけである。

 

イエスは道徳的にも霊的にも、完全無欠な生涯を送られた。にもかかわらず、彼の地上の生命(いのち)は十字架の苦しみによって奪われたのである。


私たちが経験しなければならないことはすべて、イエスも経験されている。

それゆえ、イエスは苦しむ人びとを助けることができるのである。

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W・バークレー著、柳生直行訳『希望と信頼に生きる-W・バークレーの1日1章』ヨルダン社、1974年、P236~238より抜粋し、一部改訳。( )、〔 〕内、下線は・敷衍)

英 訳
English translation

The Path Jesus Walked

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