信仰と人生

信仰に生きる 036

2021年7月5日改訂

原 著:書上とく子(注1)

現代語化:タケサトカズオ

自殺生還者の告白

水の味

渇ける者はイエスに来たれ

 

慈しみ深き友イエス

讃美歌312番森山良子いつくしみふかき

讃美歌312番合唱いつくしみふかき

幸い薄く見ゆる日に

聖歌330番TAKEO恵みの歌 幸い薄く見ゆる日に

TAKEO恵みの歌〖 幸い薄く見ゆる日に×ユー・レイズ・ミー・アップ

村松藤枝さん(右)と「水の味」の著者・書上とく子さん(左)_edited.jpg

​書上とく子氏(左)と村松藤枝氏

* * * *

 

(かわ)いている人は誰でも、私(イエス)のもとに来て飲みなさい。

私を信じる者は、聖書が語ったとおり、その人の内から生ける水が川となって流れ出るようになる。

(ヨハネ福音書 7:37~38)

* * *

1

〔1-①〕                                 
私たちは〔実に〕愚
(おろ)かで〔あって〕、失って初めて、そのものの価値に気づいて驚き〔、そして〕悔(く)やむ。

一刻一刻、吐くこの息、吸う息が神の許しなくして一呼吸さえもできないこともまるで忘れたかのように〔私たちは、感謝もせず〕無関心に暮している。

しかし、ひとたび〔父なる〕神〔の存在〕に目覚めた時、この当然にも見える〔生の〕事実は、〔実は〕何という大きな恩恵(めぐみ)であったろう〔かと、初めて〕気づく。

 

そして傲慢(ごうまん)にも〔神なしで〕独力で生きていると考えていた、その一時いっとき、〔自分が忘恩(ぼうおん)という大〕罪を犯していたことを発見する。

〔1-②〕
かつては私もまた、〕この愚かで隣れむべき人間の一人であった〔。

 

そのの上になされた神の愛の聖業(みわざ)について語ることを、いつの頃からか〔、内なる声によって〕強(し)いられていた。


失敗の〕過去を語ることは、辛(つら)い。

しかし〔もとより、〕私は〔神の前に〕塵(ちり)に等しき身。主の御栄光の〔現れる〕ためならば、自分の恥(はじ)など〔一体、〕何であろうか。

2

〔2-①〕
自殺目的で飲んだ劇薬のため、私は生れもつかぬ障害者として再び、〔この〕世に生かされる身となった。

 

劇薬による炎症のため〕食道はすっかり狭窄(きょうさく)し、嚥下(えんげ)の機能をすべて失って早や20有余年。

 

一滴の水、一滴の唾液(だえき)〔さえ〕も咽喉(のど)から飲むことはできず、胃袋に直接、刺入した一本の細いゴム管によって、すべての必要をまかなっている。


実際〕それは、かなり不自由な日々である。

〔2-②
始めの頃、一時〔病状が〕小康
(しょうこう)状態となり、一旦閉じた咽喉(のど)から苦心しながらも、一杯の水を飲むことが叶(かな)った〔ことがあった〕。


その時のことは、今でも忘れられない。

・細きのど冷たく下りゆく水のあな有難と涙ながしつ

(大意:細い咽喉〔のど〕を冷たく下っていく水のああ、何と有難〔ありがた〕いことかと〔思わず〕涙を流した)

・あないみぢき水の味かも水の味知るは我(われ)のみ我ひとりのみ

(大意:ああ、何と美味〔おい〕しい水の味だろう、〔本当の〕水の味を知るのは私のみ、私一人のみ)

・のど開き水とほりゆく喜びを人知らずして今日も生くらし

(大意のどが開き、水が通っていく喜びを〔多くの〕人は知らずに、今日も生きるのだろう)

〔2-③〕
それは普通、「喜び」と表現されるような浅薄
(せんぱく)なものではなく、それこそ初めて自分が生かされていることを(たましい)の底から知ることのできた〔、その〕生命(いのち)の叫びであった。


母の(たい)を出て十数年、一日も欠かさず味わってきたはずの〔本当の〕水の味を、今はじめて知ったのである。


他人ならぬこの私の細いのどをごくごくと冷たく下る水。それはこの世のものとは思えない味であった。

〔2-④〕
熱心な主治医から、「無理〔に〕でも〔水を〕飲む努力をしないと〔、食道が〕ますます固まって〔、嚥下の機能が〕ダメになる。あきらめてはいけない」と言われた。


私は〕それを重要な〔リハビリの〕仕事として、日に幾度(いくど)か水を〔口に〕含み、他(ほか)の人のように飲み込もうとした。

 

しかし、ほとんど嚥下の機能を失った私の食道は、鉄の扉(とびら)よりも頑固(がんこ)に、水をつき返して来るのだった。


それなのにその私に今〔こうして、〕水が飲める!

思いがけなくも、〕自然にのどが開いて水を通してゆく。この不思議さ、ありがたさ。

私は涙を流しながら、〔水を〕味わった。


多くの人は〔、咽喉(のど)を通して水が飲めるという〕この偉大な事実に〔喜ぶことも感謝することもなく、〕無関心に生きているの〔だろう〕か。

 

ひとたび〔そのありがたさに〕気づいてみれば、それは何という、恐ろしいほどの恩恵であったのだ〔ろう〕。

3

〔3-①〕
しかし、それはあまりにも短い時間〔のできごと〕に過ぎず、〔その後、〕私の食道は永久に閉鎖されてしまった。

 

暗夜(あんや)(す)った一本のマッチのように、火が消えた瞬間、闇(やみ)は〔以〕前より余計(よけい)に濃くなった。

 

誰もが所持している貴重なものが、私にだけ失われてしまった〔のである〕。

3-②〕
人知れぬ〔苦闘の〕日々は繰り返され、私の生命は不自由ながらも、一本の管
(くだ)によって何とか保たれはした。


しかし、水だけはのどを通過させねば、渇(かわ)きは完全に癒(いや)すことはできなかった。


どうか水だけは飲ませて下さい」と苦しみ〔の中から日々、〕祈った。

私の半生は、このようにして続いた。

(い)ける神を知らぬ日〔々〕に〔あって〕は、〔それは〕悲哀と苦闘のみの人生と言うほか無かった。

 

4

〔4①〕
しかし、何という幸福(さいわい)であったろう〔か〕。


その人知れぬ苦難〔の道〕こそ〔実に〕、創造主〔である真(まこと)の神〕を仰(あお)がしめ、人間の無力を教え、自らを最大の罪人(つみびと)として明らかに示し、キリストの十字架のもとに〔己(おの)が〕身を投げ出させるための、〔神の〕道に外(ほか)ならなかったのだ。


歩め言って傷つき裸のまま放り出された道を前にして、私は途方(とほう)にくれるしかなかった。

親兄弟も、師も友も同伴を許されない、ただ一人ぼっちの旅〔路〕。

それでも、〕私は歩みはじめた。

もとより、自ら〕蒔(ま)いた種は〔、自らが〕刈〔り取〕らねばならぬ。〔それは〕当然〔、わが身に〕受くべき苦しみである。


しかしこのとき、明確な罪の自覚が思いがけぬ力を秘(ひ)めた杖(つえ)となり、よろめく〔私の〕足を助けてくれた。 


私が神を知らずにいた日〔々〕にも、神は私〔のこと〕を〔すべて〕ご存じだった〔のだ〕。

今にして、このことを悟(さと)る。


杖に力があったのは、当然である。

なぜなら、愛の父〔なる神〕ご自身が〔私を〕支えて下さっていたのだから。

〔4-②〕
あなたのすべての罪は、キリストの十字架によって贖
(あがな)われ〔、すでに赦されてい〕る。

ただ、イエス様を〔自らの救い主として〕信じなさい


そう言ってくれた人の言葉を「待っていました」とばかりに単純に受け入れる心が、長い忍耐の旅路の中で培(つちか)われていた。

4-③
 「労苦する者、重荷を負う者はすべて、わたしのもとに来
(き)たれ。

わたしはきみたちを休ませてあげよう」とイエスは言われる〔マタイ11:28、杉山好訳〕。

十字架の(もと)に〔己(おの)が〕身を投げ出した瞬間、私の〔孤独な〕一人旅は終っ〔てしまっ〕た

 

キリストを理屈なく受け〔入れ〕て丸呑(の)みにした時、〔驚くべきことが起こった。

私は本当に〕渇きを知らぬ身となった〔のだ!〕。

この私の咽喉は「天国の門」のように狭く〔マタイ7:14〕、〔そこを〕水が通るのは「らくだが針の穴を通る」よりむずかしい〔マタイ19:24〕。

 

けれども人にはできないことを、神はなして下さった。

こうして私は、世〕人(よびと)の窺(うかが)い知ることのできない、悲しみに打ち勝つ歓(よろこ)を与えられ〔たのだった。〕


活ける神を信じ、キリストと共に生きる - 〕ここに、私の《天国》があった。

4-④
わが愛する人々よ、〔私と一緒に〕喜んで下さい。

今、〕私は水が飲める。飲めなくとも、〔本当に〕飲める〔のです!〕。


世の人、あなた〔がた〕は、まだ信じられないと言われるのか。


私は証言する-

わが身に起こったこと、〕これを奇蹟(きせき)と呼ばずして、何と呼ぼう。

そして、(おの)れの〕罪を赦されたことは〔すなわち〕、〔自分の〕すべてを癒(いや)されたのと同じである(マタイ 9:5)。


十字架によって〔旧(ふる)き自分に死に、〕天〔来〕の生命(いのち)に甦(よみがえ)らされた時、身体(からだ)のことは問題でなくなってしまった。

(いな)〔私が経(へ)たのは、身体が〕癒される以上の〔、根本的な〕癒(いや)の体験である。

4
愛なる神の直接の御手
(みて)〔の業わざ〕によって、閉じたままの咽喉を通りゆく不思議な〔生命(いのち)の〕水

 

それはイエスが与えてくださる水であり、この水を飲む者は〕、もはや永遠に渇くことなく、《永遠の生命》にまで至る〔ヨハネ4:13~14〕。

5

〔5①〕
私は今、無為(むい)の病床にある。

それは、一見〕昔の日以上に破れた肉体を引きずっての日々のように見えるかも知れない。

 

しかし、ここに在(あ)るのはもはや、かつての私(=旧き自分)ではない。キリストによって〔真(まこと)の〕自由を得た新しい私(=新しき自分)である。


すべての涙を拭(ぬぐ)われ、〔私は〕ここに、キリストからいただいた新しい生命の歓(よろこ)を歌う。

5-②

・主よ渇くとすがり奉(たてまつ)ればたちまちに癒(い)えてたつなり十字架の蔭(かげ)

(大意:主よ、〔私は〕渇いているのですとお縋(すが)りすれば、たちまち〔渇きを〕癒やされて立つ、〔主の〕十字架の陰に)
 
・棘
(とげ)ながら痛みとられし奇(く)しき身はただ主に生きてめぐみ伝えん

(大意:棘ありながら痛みを除かれた不思議なわが身は、ただ主に〔あって〕生き、その恵みを〔人々に〕伝えよう)

5-③

この歓びを自分一人で独占(どくせん)してよいもの〔だろう〕か。


肉体に、〔また〕そのたましいに傷をもつ人々に、私のこの溢(あふ)れる歓びを分け、その手を取って共に〔神に〕感謝を捧げることができるなら、この身の幸(さいわ)いは倍加する。


私の残りの生命は、ただそのためにのみ〔、神に〕用いていただこう。

わが魂よ、力の限りに主を讃(たた)えよハレルヤ!〕

1949(昭和24)年2月 信愛園にて


 ♢ ♢ ♢ ♢

(竹内正一編集・書上誠之助発行『みめぐみの跡(あと)-書上とく子記念文集- 』1986〔昭和61〕年3月20日、非売品。19~23項、( )、〔 〕内および《 》、段落番号は補足。下線は引用者による。一部表現を現代語化)

 

注1 書上(かきあげ)とく子

略歴:

1909(明治42)​11月28日

群馬県桐生(きりゅう)市に生誕。

1929(昭和4)3月

群馬県立女学校卒業。この年、大学入試失敗を恥じて服毒自殺未遂。このため食道狭窄(きょうさく)を起こし、水・食物の嚥下(えんげ)不能となる(19歳)。

1943(昭和18)4月11日

栃木県真岡(もおか)市郊外、松林の中にあった結核療養所「信愛園」(キリストの福音を掲げて、村松藤枝氏が経営)に入所。このとき、キリスト教に入信(34歳)。

塚本虎二(とらじ)主筆『聖書知識』の読者となる。

1959(昭和34)3月

結核患者の減少により「信愛園」が解散し、豊橋市大清水の村松藤枝氏宅に同居(50歳)。

1963(昭和38)3月

東京白十字病院に入院し、胸郭形成術を受ける(54歳)。

1981(昭和56)11月

宇都宮市岩曽町へ転居(72歳)。

1984(昭和59)4月

肺炎にて国立栃木東病院に入院。

1984(昭和59)4月20日

召天(75歳)

注2 新聖歌330番

幸い薄く見ゆる日に

歌詞

1.

(さいわ)(うす)く見ゆる日に、孤独に悩むときに、

​わが恵み汝(な)れに足(た)れりと 静かな声を聞きぬ。

されば、(われ)わが目を上げて

十字架のイエスを仰(あお)がん。

主よ、(な)が愛を思えば、われに乏(とぼ)しきことなしと。

2.

愛する者を失いて 望みの消ゆるときに、

われ(なんじ)をひとりにせじと 優(やさ)しき声を聞きぬ。

 

さればわれ笑(え)みをたたえて、

友なるイエスに応(こた)えん。

主よ汝が愛に生(い)くれば われ乏しきことなしと。

現代語訳

1.〔自分の人生が〕薄幸(はっこう)に見える日に、孤独に悩むときに、

わが恵みはあなたに十分である」と 静かな〔、しかし確かな主の御〕声を〔私は〕聞いた。

それゆえ、私はわが目を上げて

十字架のイエス仰ぎ、そして申し上げよう。

主よ、あなたの愛を思うとき、私には乏しいことは〔何も〕ありません」と。

2.

愛する者を失って 希望〔の灯(ともしび)〕が消え〔ようとす〕るとき、

私は〔決して、〕あなたを一人にはしない」と〔主の〕優しき声を聞いた。

それゆえ私は〔涙の中から、ふたたび希望の〕笑みをたたえて、

友なるイエス応える。

主よ、〔私は〕あなたの愛に生きています。ですから私には乏しいことは〔何も〕ありません」と。

( )、〔 〕内は補足

注3 原著「水の味」

無名の一無教会キリスト者・書上とく子(1909~1984年)の原著「水の味」は、素朴(そぼく)な筆致(ひっち)の中に、腹の底から湧(わ)き出る喜びと感謝が溢(あふ)れている。

上記「水の味」は、読者の理解を助けるため、原文の一部を現代語化し、さらに補足と敷衍(ふえん)を加えたものである。

読者書上とく子の生の息吹きに触れ、さらに彼女を死地(しち)から救い出し新生させた生ける神キリスト十字架の真実に出会うことを願い、以下に原文を全文、『みめぐみの跡 -書上とく子記念文集- 』より引用する。

なお戦中・戦後の無教会史について研究される方には、資料として以下の原文を利用されるようお願いしたい(ルビおよび〔 〕内は、引用者による補足)。

​原文

水の味

書上とく子

人もし渇(かわ)かば我(われ)に来(きた)りて飲め、

(われ)を信ずる者は聖書に云(い)えるごとくその腹より活(い)ける水、川となりて流れ出(い)づべし

(ヨハネ伝 7章37、38節)

1

〔1-①〕                               
私たちは
(おろか)で、失って始めてそのものの価値を知って驚き悔(くや)む。

一刻々々吐(は)くこの息、吸う息が神の赦しなくして一呼吸さえもできないこともまるで忘れたかのように無関心に暮している。


しかしこの当然にも見えるこの事実は、一度(た)び神に目覚(めざ)めた時、何という大きな恩恵であったろうと気付く。

 

そうして傲慢(ごうまん)にも我(わ)が力で生きていると考えていたその一時々々罪を犯していたことを発見する。

〔1-②〕
この
(おろか)な隣(あわ)れむべき人間の一人であった私の上になされた神の愛の聖業(みわざ)に就(つ)いて語ることを何時(いつ)の頃よりか強(し)いられていた。

過去を語るは辛(つら)い。しかし私は塵(ちり)なる身、主(しゅ)の御栄光の為(ため)には自分の恥(はじ)など何であろうか。

2

〔2-①〕
私は自殺の目的を以
(もっ)て飲んだ劇薬の為(ため)、生れもつかぬ不具(ふぐ)者として再び世に生かされる身となった。

 

食道はすっかり狭さくを起し、えん下の機能をすべて失って早や二十年余の年月を、一滴の水、一滴の唾液(だえき)も咽喉(のど)から飲むことをゆるされず、胃の腑(ふ)に直接に刺貫した一本の細いゴム管によって、一切の用を足している。

 

それはなかなかに不自由な毎日である。

〔2-②〕  
始めの頃一時小康
(しょうこう)を得て、一旦(いったん)閉じられた咽喉から苦心しながらも一杯の水を飲むことが叶(かな)った。


その時のことは今も忘れられない。

細きのど冷たく下りゆく水のあな有難(ありがたし)と涙ながしつ

あないみぢき水の味かも水の味知るは我のみ我ひとりのみ
         
のど開き水とほりゆく喜びを人知らずして今日も生くらし

〔2-③〕
それは普通に喜びと云われるような浅薄
(せんぱく)なものではなく、それこそ己(おの)が生かされていることを始めて魂の底から知り得た生命(いのち)の叫びであった。

 

母の胎内を出てから十数年、一日も欠かさず味わってきた筈(はず)の水の味を今はじめて知ったのである。
 

他人(ひと)ならぬこの私の細いのどをごくごくと冷たく下る水、それはこの世のものならぬ味であった。

〔2-④〕
熱心な主治医から、無理でも飲むことを試みていないと益々
(ますます)かたまって駄目(だめ)になる。あきらめてはいけないと言われ、それを重要な仕事として日に幾度(いくど)か水を含んで人の真似(まね)をしてみた。

 

併し(ほと)んどえん下の機能を失った私の食道は、鉄の扉(とびら)よりも頑固(がんこ)に水をつきかえして来るのであった。

 

それなのにその私に今水が飲める!

思いがけなく自然にのどが開いて水を通してゆく。この不思議さ、ありがたさ、私は涙を流しつゝ味わった。

 

多くの人はこの偉大な事実をも無関心に生きているのか。

一度気づいたならば、それは何という恐ろしい程(ほど)の恩恵であったのだ。

3

〔3-①〕
しかし、それは本当に短い時間に過ぎなくて、私の食道は永久に閉鎖されてしまった。

 

暗夜にすった一本のマッチのように、火が消えた瞬間、闇(やみ)は前より余計(よけい)に濃くなった。人が誰でも所持している貴重なものが私にだけなくなってしまった。

〔3-②〕
人知れぬ毎日は繰り返されて、不自由ながらも一本の管
(くだ)によって、私の生命はどうやら保たれはしたが、水だけはのどを通過させねば完全に渇(かわき)を癒(いや)すわけにはゆかなかった。


どうか水だけは飲ませて下さい」
と苦しみ祈った。


こんなにして私の半生は続けられた。それは活(い)ける神を知らぬ日には、悲哀(ひあい)と苦闘のみの人生であった。

4

〔4-①
しかし何という幸福であったろう。

その人知れぬ苦難こそ、創(つく)り主(ぬし)を仰(あお)がしめられ、人間の無力を知り、最大の罪人(つみびと)として自分をはっきり示され、キリストの十字架のもとに身を投げ出す為(ため)の道に外(ほか)ならなかっだ。


歩め」と云って傷ついた裸のまま放り出された道を前にして、途方(とほう)にくれた私であった。親兄弟も、師も友も伴侶として許されぬ只(ただ)一人ぼっちの旅である。

 

私は歩みはじめた。蒔(ま)いた種は刈(か)らねばならぬ。当然受くべき苦しみである。


併し(こ)の時はっきりした罪の自覚、これがよろめく足を助けてくれるという思いもうけぬ力を秘(ひ)めた杖(つえ)となった。

 

私か神を知らぬ日にも、神は私を知り給(たも)うた。今にしてそのことを覚(さと)る。杖に力のあったのは当然である。愛の父御(おん)(みずか)ら支え給(たも)うて居(お)られたのである故(ゆえ)に。

〔4-②〕
あなたのすべての罪はキリストの十字架によって皆あがなわれる。只
(ただ)エス様を信じなさい」


そう(い)ってくれた人の言葉を、待っていましたとばかり単純に受げ入れる心が、その長い忍耐の旅路(たびじ)の間に培(つちか)われていた。

〔4-③〕
労する者、重荷を負
(お)う者は我(われ)に来(き)たれ、我(われ)(なんじ)らを休ません
とイエスは言われる。

 

十字架のに身を投げ出した瞬間、私の一人旅は終った。理屈なく受けてキリストを鵜呑(うの)みにした時、渇(かわ)きを知らぬ身とはなった。

 

この私の咽喉(のど)は天国の門のように狭く、水が通るのは、らくだが針の穴を通るよりむずかしい。

 

げれども人には能(あた)わぬことを神はなし給うた。人の知らぬ、悲しみに勝(まさ)る歓(よろこ)びが与えられ、此処(ここ)に私の天国があった。

〔4-④〕
愛する人々よ、喜んで下さい。私は水が飲める。飲めなくとも飲める。

 

世の人よ、あなたはまだ信じられぬと云(い)われるのか。之(これ)が奇蹟(きせき)でなくて何と云おう。

 

罪を赦されたことは凡(すべ)てを癒されたと同じである。(マタイ伝 9:5)。十字架によって天の生命(いのち)に蘇(よみがえ)らされた時、身体のことは問題でなくなってしまった。否(いな)、癒された以上の癒しの体験である。

〔4-⑤〕
愛なる神の直接の御手
(みて)によって、閉じたままの咽喉を通りゆく不思議な水、それは最早(もは)や永遠に渇くことなく、永遠の生命にまで至る。

5

〔5-①

私は今、無為(むい)の病床にある。昔の日に勝(まさ)る破れた肉体を引きずっての日々であっても、此処(ここ)にあるのは最早(もは)や以前の私ではない。キリストに依(よ)って自由を得た新しい私である。

 

此処(ここ)すべての涙をぬぐわれてキリストより賜(たま)わった新しい生命の歓(よろこ)びを歌う。

〔5-②〕
主よ渇くとすがり奉
(たてまつ)ればたちまちに癒えてたつなり十字架の蔭(かげ)

 

(とげ)ながら痛みとられし奇(くす)しき身はただ主に生きてめぐみ伝えん

〔5-③〕
この歓びを自分一人独占してよいものか、肉体に、そのたましいに傷もつ人々に、私のこの溢
(あふ)れる歓びを分ち、その手を取って共に感謝を捧(ささ)げることができるなら、此(こ)の身の幸(さいわい)は倍加する。

 

私の残る生命を只(ただ)その為にのみ使っていただこう。

(昭和24年2月 信愛園にて)

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