
イエスの純福音・無教会の精髄・第二の宗教改革へ
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最終更新日:2026年2月1日
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神学・論文 026
2026年1月22日
2026年1月27日改訂
高橋 三郎
注:さかまき・たかお
Christianity as a Religion
宗教としてのキリスト教
-人為的宗教性の問題-
by TAKAHASHI SABUROU
□The English translation is located in the middle of this page.
■한국 번역은 이 페이지의 뒷부분에 있습니다.
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* * * *
宗教としてのキリスト教
高橋 三郎
紀元前10 世紀にソロモン〔王〕が建てた神殿(注1)は、神の臨在(りんざい)をその中に閉じ込め〔ようとす〕る〈人為的宗教性〉(注2)の表れでしたが、キリスト以後の教会史においても、「〔イエスの〕福音」の周囲に〈人為的宗教性〉の柵を張りめぐらす作業が一貫して行われ〔てき〕ました。
そこに出現した《宗教》は、制度的組織と教義体系と礼典から成り立っています。
紀元3 世紀の司教キプリアヌス以来、「教会の外の救いなし」という命題が主張されてきましたが、〔では一体、〕救いの保持者としての真の《教会》はどこにあるのかという点が、一貫して論争の対象となりました。
次に、「〔人は〕信仰によって救われる」という命題(信仰義認論)は、「正しい信仰がなければ救われない」という〈否定の論理〉を生み出し、信仰の正しさについての教義論争は暴力的対決まで誘発しました。
そして、〔異端審問によって正統派教会から〕《異端》とされた多くの人が火刑によって殺されるという痛ましい結果を生みました(注3)。
また《サクラメント》と総称される礼典は、〔神の〕救いを〔人間に〕媒介する〈聖なる営み〉とされてきましたが、「洗礼を受けぬ者は、キリスト者ではない」という〈排除の論理〉が定着し、〔サクラメントは〕キリストの救いを〔その中に〕閉じ込める〔強固な〕枠組みとなりました。
このように「〔制度的〕組織」と「教義」と「礼典(洗礼、聖餐など)」によって構成される《宗教》が一貫して〈否定の論理〉によって支えられている理由は、キリストの救いにあずかるためには、一定の条件〔を満たすこと〕が必要だとみる「法律的思惟(しい)形式」(=律法主義的な考え方)が根底にあるためです。
そして、このように構成された《宗教》が人類を救う力を持ち得ないのは、当然の結果であります。
キリスト以前にも以後〔の時代〕にも〔、つまり人類の全歴史を通じて〕、生ける神の御業(みわざ)を〈人間的宗教性〉の中に閉じ込める作業が一貫して行われました。
この〈人為的宗教性〉を突き破って真の《福音》に立ち返ることは、歴史の続く限り終わることのない我々の課題であります。
〔しかしそもそも、人為的宗教性、すなわち制度的組織・教義体系・礼典儀式から成る《宗教》の中に神の救いを閉じ込めることは不可能なのであって、〕私どもの「義と聖と贖(あがな)い」(コリントⅠ 1:30b)〔すなわち、私どもの救いそのもの〕になって下さったキリスト〔ご自身〕を〈神からの賜物〉としてお受けするという恩恵の事実の中に、《福音》のエッセンス(神髄)が凝縮しています。
この恩恵の原点に立ち返ることこそ、内村鑑三以来、無教会の目指してきたところでした。
♢ ♢ ♢ ♢
(文献:高橋三郎著『真理の受肉-週ごとの言葉』教文館、2004年、86~87項より全文引用。下線、〈 〉、《 》および( )、〔 〕内は補足・敷衍)
注1 ソロモン王
ソロモンは知恵と栄華(えいが)の権化(ごんげ)として知られる。ソロモン王の時代に、統一王国イスラエルは最盛期を迎えた。
統一王国イスラエル初代王ダビデとバト・シェバの間に生まれたソロモンは、ダビデの死後、王位を引き継いだ。在位は紀元前965年頃~926年。
ソロモンは王に即位するや国内に城砦(じょうさい)を築き(列王記上 9:15~19)、またエジプトなどの外国の王家や征服した民族の王家と婚姻関係を持つことで、自らの王国の存続を確かなものとした(同11:1)。彼には700人の王妃と300人の側女がいた(同11:3)。
ソロモンは経済活動にも力を入れ、積極的に対外交易を行った結果、イスラエルには巨万の富がもたらされた。この繁栄を背景に文芸や文化も大きく発展し、後に「ソロモンの栄華」と呼ばれるほどであった(マタイ 6:29 参照)。
また彼は、《契約の箱》を納めていた移動式の天幕の代わりに、ダビデ以来の宿願であった神殿(第一神殿)をエルサレムに建設し、豪華な王宮も建設した(列王記上 5:15~7:51)。これらは莫大な経費と労力を必要とする事業であった。
エルサレム神殿建設では、ソロモンは国民に重税を課しただけでなく、木を切り出すために3万人、材木輸送に7万人、石を切り出すのに8万人という途方もない数の国民(国民の約1割!)を強制的に土木工事に駆り出した。
13年の歳月をかけて完成した神殿は、全体が金でおおわれ、贅(ぜい)を尽くした絢爛(けんらん)豪華なものだった。
神殿の建設は王の信仰心の発露と見ることもできるが、政治的に見れば、宗教的権威によって王の存在と権威を正当化すると共に、王権のもとに宗教を位置付けようとする試みでもあった。
後のキリスト教史においても、同様の出来事(国権と教権の癒着と相互利用)がローマ帝国と国家宗教としてのキリスト教の間で繰り返された。
果たして現代世界では、このような癒着関係は過去のものと言えるだろうか(ロシアのプーチン政権とロシア正教会、米国のトランプ政権と米国プロテスタント福音派教会の関係を見よ)。
なお晩年のソロモンは、異教の妻の求めに応じて異教の神々のためにエルサレムの東の山に神殿と偶像を作り、彼自身、神々を礼拝したため、神の怒りを買った。
神は、ソロモンにこう告げた。
「それゆえ私は、あなたの王国を引き裂き、あなたの家臣に分け与える」(同 11:11)。
「ソロモンの栄華」の一方で、ソロモンの後継者をめぐる争いが生じ、また貧富の差の拡大、重い税金や強制的な労働などによって社会的な不満が高まっていった。
とりわけ、北部の諸部族の間では南部のユダ族出身の王家による支配への反発もあって、統一王国に対する強い批判が生じた。
これらの結果、ソロモンの死後、紀元前926年に統一王国は北イスラエルと南ユダに分裂し、ダビデによる建国以来、統一王国は80年たらずで瓦解(がかい)した。
このように、ダビデとソロモンの2代にわたる統一王国の時代は、現実には多くの問題をはらんだ時代であったが、イスラエルの歴史に於ける黄金時代であったとの印象を後代まで残した。
(注1の参考文献:越川弘英著『旧約聖書の学び』キリスト新聞社、2014年、166~170項、大島力監修『知識ゼロからの聖書入門』幻冬舎、2011年、86~91項、ピーター・カルヴォコレッシ著、左柳文男訳『聖書人名事典』教文館、1998年、81、82項)
注2 人為的宗教性とは何か
〈人為的(じんいてき)宗教性〉とは、人々の不安や心の隙間に宗教がつけ込み、それを解消する「仕掛け」として、人為的に様々な仕組みや儀式を作り出すこと、また作り出したもの。
〈人為的宗教性〉について問う前に、先ず、根本的な問いから始めよう。
その問いとは、これである。
そもそもイエス・キリストは、《宗教》を説かれたのだろうか。
むしろ《宗教》としてのキリスト教は、イエスや使徒たちの残した言葉を利用して、後代の人間たちが寄ってたかって作り出したものではないか。
《宗教》とは、人間が神を己(おのれ)の手中につかみ取ろうとする営みであり、また神に仕えると言いながら神を人間に仕えさせ、さらには人間が神の位置に立とうとすることではないのか。
事実、イエスはそのような《宗教》と戦ったがゆえに、神殿祭司やファリサイ人ら《宗教人》によって十字架に追いつめられたのではなかったか。
それは、イエスの精神、イエスが語られた《福音》は、《宗教》の精神と真っ向から対立するものだったからではないか。
これが、イエス・キリストの生涯と十字架、またキリスト教の歴史を振り返るときに抱く率直な思いであり、疑問である。
そして、人間が《宗教》を作るときに発揮されるのが〈人為的宗教性〉である。
人為的宗教性は、以下のような特徴を持つ。
①制度化:組織としての決まり事、つまり制度化された枠組みとして、宗教的信念(教義や信じ方)や儀礼(礼典)の在り方を定め、組織の秩序維持のために利用する。
②儀礼化:人間の作り話・神話・礼典などを体系化し、参加者に宗教的一体感を与える。
③規範の内面化:信者としての道徳や倫理を宗教的権威(教団の命令・指示)に結びつけることで、信徒の行動を組織に都合良く方向づける。
これらによって人為的宗教性は、以下の目的を達成しようとする。
①宗教的権威の固定化:宗教的権威を制度化することで、組織内での支配構造(支配-被支配の関係)を強化する。
②信者の自由の制約:信者個人の信仰や行動を組織の規範に従属させるとともに、これによって異論や「逸脱」、「異端」を排除する。
このような〈人為的宗教性〉は、洋の東西を問わず、人類の歴史と共に古い。
注3〈否定の論理〉による《福音》の矮小化
制度宗教(宗教としてのキリスト教)の〈否定の論理〉は、イエス・キリストの精神、《イエスの福音》を矮小化(わいしょうか)する。
この問題は、単なる制度宗教への批判ではなく、「イエスの福音とは何であったのか」という核心に触れるものである。
なおここで〈否定の論理〉とは、さし当たり、「教会に属さないと、救われない」、「洗礼を受けないと、救われない」、「この教義を信じないと、救われない」などの主張、総じて「教会の外の救いなし」、「正しい信仰がなければ、救われない」という主張を指す。
制度宗教が用いる〈否定の論理〉は、なぜイエスの精神、福音の矮小化を招くのか。また、それは一体、何を意味するのだろうか。
① 〈否定の論理〉とは何か
「教会に属さないと、救われない」、「洗礼を受けないと、救われない」、「この教義を信じないと、救われない」、「従順に教会奉仕しないと、救われない」。
〈否定の論理〉に共通するものは、神の救いを〈条件付きのもの〉に変質させるという点である。
〈否定の論理〉の特徴は、
第一に救いを、特定の制度・儀式・教義への従属と結びつける。
第二に救いを、排他的な境界線で区切る。
第三に救いを、資格・合格・所属によって保証されるものとみなす。
第四に救いを「自分たちの外側の人は救われない」という否定形で語る。
つまり〈否定の論理〉とは、「神の救いは、特定の〈枠〉内に入った者だけ(=自らが定めた条件を満たす者だけ)に限定される」とする論理である。
②〈否定の論理〉はどう《福音》を矮小化するか
ⅰ. イエスは救いを〈無条件のもの〉として示した。しかし宗教は「条件付き」のものに変える
イエスの語りかけは、宗教の語り方と正反対である。
彼は呼びかけた。
「疲れた者、重荷を負う者は、誰でも私のもとに来なさい」と(マタイ 11:28)。
またイエスは、当時のユダヤ人社会から軽蔑され、はじき出されていた《地の民》(アム・ハ・アレツ)、《罪人》(つみびと)たちを差別することなく、彼らと共に食卓を囲んだ(イエスの共食。マタイ 9:10)。
さらに彼は言った。
「娘よ、あなたの信仰があなたを救った。安心して行きなさい」(マルコ 5:34)、「神は悪人にも善人にも太陽を昇らせ、正しい者にも正しくない者にも雨を降らせて下さる」(マルコ 5:45)と。
イエスは、神の救いを特別の〈資格〉を有する者の特権としてではなく、すべての人に与えられる神の自由な《恵み》(恩寵)として示した。
しかし、制度宗教の〈否定の論理〉は、これを逆転させる。そのことによってイエスの福音を矮小化し、変質させるのである。
ⅱ. イエスは〈境界線〉(隔ての壁)を廃棄する。しかし宗教は〈境界線〉を作る
「キリストは、私たちの平和であり、二つのものを一つにし、ご自分の肉によって敵意という隔(へだ)ての壁を取り壊し、数々の規則から成る戒(いまし)めの律法を無効とされた」(エフェソ 2:14)。
イエスは人間が、宗教が作った〈境界線〉を軽々と踏み越えた。《隔ての壁》を廃棄された(マルコ2:13~17参照)。
清い人間と汚れた人間、内側の人と外側の人、義人と罪人(つみびと)、男と女、選民ユダヤ人と異邦人・・これらの〈境界線〉をイエスは打ち破り、《神の国の門》を広く人々に開放したのである。
しかし宗教は、逆に〈境界線〉を引き直す。
教会の内側と外側、洗礼を受けた者(=教会員)と受けていない者(=求道者)、聖餐にあずかる者(=陪餐会員)とあずかれない者、正統教義を信じる者と信じない者(=異端者)等々。
宗教はこのように排除の〈境界線〉を作った。これは、イエスが開放した《天国の門》を再び閉じようとするものではないだろうか。
ⅲ. イエスは「人のために安息日がある」と言った。しかし宗教はこれを逆転させる
イエスは言った。
「安息日は人のためにあるのであって、人が安息日のためにあるのではない」と(マルコ 2:27)。
その意味する所は、制度は人を生かすためのものであって、人が制度に隷属するためにあるのではない、ということである。
しかし制度宗教の〈否定の論理〉は、これを逆転させる。
「救われるためには、教会の制度に従え」、「教会の外にいる者は救われない」、「救われたければ、教会の中に入って来い」と。
宗教にあっては、制度の維持が最大〈目的〉化し、人間は制度維持のための〈手段〉とされる。
これは、イエスの精神の根本的な反転ではないか。
ⅳ. イエスの福音は〈神の自由な愛〉。しかし宗教はこれを「条件付きの愛」に変質させる
イエスがわれわれに語った神は、〈先行する恵みの神〉である。
すなわち、人が神を愛するよりも先に、人を愛する神。人が罪を悟り悔い改めるよりも前に、罪人を赦す神。人が神に立ち帰るはるか前から、人を招き待ちわびておられる神。人が神に献げるよりも先に、自らを人に与える神である(ルカ15:11~24「父の愛の譬え」の父親の姿を見よ)。
しかし宗教の〈否定の論理〉は、神の愛を〈条件付きの愛〉に変えてしまう。
「正しい教義を信じれば、神に愛される」、「洗礼を受ければ、罪を赦される」、「教会に属すならば、救われる」、「教会の奉仕を全うするならば、神に喜ばれる」と。
これは、イエスがもたらした福音の核心を消し去る行為ではないか。
ⅴ. イエスは《神の国》を語った。しかし宗教は〈教会の国〉を語る
イエスは《神の国》の福音を語った。それは宗教や会堂や組織を超えて拡がる《神の恵み》(恩寵)であった。
しかし宗教はしばしば、「教会の外には救いがない」、「教会の外には真理がない」と主張し、《神の国》=教会組織という等式を暗黙裏(り)に作る。
これは、《神の国》を人間の手に成る《宗教》に閉じ込めようとする行為であり、イエスのビジョン、福音の矮小化ではないか。
ⅵ. イエスの福音は神にある《自由》を人に与える。しかし宗教は恐れを生む
イエスの福音は、恐れからの解放であり、魂の自由であった。
イエスは呼びかけた。
「恐れるな」(マタイ10:26、28)、「安心せよ、私だ。恐れることはない」(マタイ14:27)と。
しかし宗教の〈否定の論理〉は、恐れを生む。
いわく、「教会を離れたら、滅びる」、「洗礼を受けなければ、救われない」、「教義を疑えば、神に裁かれる」等々。
このような恐怖による支配は、イエスの精神とは真逆のものではないだろうか。
③ 結語
《宗教》としてのキリスト教が有する〈否定の論理〉は、無条件の《神の愛》を「条件付きの愛」へと変質させる。
同様に、すべての人に開かれた《神の国》を教会員だけの閉じた教会組織へと、《恩寵》による精神の自由を恐れによる魂の隷属へと、人を差別する境界線の破棄を新たな境界線の再構築へと、人の魂を生かす制度を人の精神を縛る制度へと、神の広大無辺な救いを特定集団の特権へと変質させる。
このようにして《宗教》としてのキリスト教は、イエスが万人(ばんにん)に向けて開かれた門を組織の「狭き門」に作り替える。
これが〈否定の論理〉が生む、福音の矮小化である。
《宗教》という制度は、人々の間に〈隔ての中垣〉を作り、人間を「救われる人間」と「救われない人間」に分断する。それゆえ、《宗教》としてのキリスト教が人類を救う力を持ち得ないのは、自明の理ではないだろうか。
高橋が述べるように、「人為的宗教性を突き破って真の《福音》に立ち返ることこそ、歴史の続く限り終わることのない我々の課題」である。
注3 異端審問と迫害
英 訳
□ English translation
Christianity as a Religion
by SABUROU TAKAHASHI
in preparation
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