聖書に学ぶ 013

2021年8月11日改訂

原著:藤井 武

現代語化:タケサト・カズオ

詩篇研究

鹿が渓水を慕い喘ぐがごとく

私の詩としての詩篇42篇2~6節

〖鹿が渓水を慕い喘ぐがごとく〗   ⑵   ⑶     

*     *     *  *


                             

〔5〕

かつてわたしは、喜びと讃美の声を上げ
祭りに集う人の群れと共に進み
彼らを神の家へと導いた。


今これらの事を追想して、
わが内にわが魂
(たましい)を注ぎ出す。

​(詩篇 42:5)


〔5-①〕
この時にあたって、私の心にしきりに浮かび出るものは、過去の追想
(ついそう)である。


ああ、幸福(さいわい)だったあの日々!

朝ごとに(あふ)れる希望とともに、私は目ざめた。

終日、歓喜と勇気とに満ちて、主と共に私は疲労を知らずに働いた。

(よ)な夜な、尽きることのない感謝が〔寝〕床上の私を漂(ただよ)わせた。

 

生きることそのことが、私にとっては讃美であり歌であった。

聖書は私のための緑野(りょくや)であって、そのどの一節一句にも、私はたましいを満悦させる豊かな糧(かて)を見出した。

 

祈りは私のための憩(いこ)いの渚(みぎわ)であって、そこに私はいつも腰を下ろした。

 

そして私の口から出るすべての告白に対し、確かな神の応答(こたえ)が聴かれないことは稀(まれ)であった。

 

ヘルモンの(つゆ)が下ってシオンの山〔々〕に流れるように、恵みの油は日々、私の頭(こうべ)に注(そそ)がれた(詩篇133:3、注1)。

 

人の思いを超える平安が絶えず私を守った。

「わたしは安らかな時に言った、永遠にわたしは動かされない、と。

ヤハヴェよ、あなたは恵みによって、わたしを堅固(けんご)な山の上に立たせてくださった」〔詩篇30:7、8〕。

 

私もまた、M.ルターのように「何ごとでも〔、祈り〕願うものを与えられる」神の寵児(ちょうじ)であると自(みずか)ら信じた。


ただ私だけがこの大(おお)いなる恵みに与(あず)かったのではない。

私はまた、同じ信仰を守る多くの人々と共に、群(むれ)をなして神の前に出た。

そうだ、私は自ら案内者の役目をさえ務(つと)めて、筆に口に、歓喜と讃美の声を上げながら、彼らを神の家へと導いたのである。

〔5-②〕
これらのことを追想する時に、私のたましいは、言いがたき感慨のために溶けて流れ〔出〕るのを感じる。


第一に、それはもちろん、大いなる痛みである。

過ぎ〕去った喜悦(よろこび)の日を想うとき、現在の寂(さび)しさはますます、骨〔髄〕にまで徹しようとする。

思い出が特別に美しい分、それだけ痛みは堪(た)えがたい〔のである〕。

しかしながら、美しき追想は、ただ私の痛みであるだけなのか。

決して、そうでない

特別に恵まれた私の過去の経験は、神に対する私の感謝を無限のものとする

 

私はすでに、人がこの世において経験することのできる最大の恩恵(めぐみ)に与(あずか)らされたのである。

 

私はすでに、父〔なる神〕の懐(ふとこ)ろに分け入り、彼の心の最も深き所を見ることができるようにされたのである。

 

私はすでに、ヤハヴェの幕屋(まくや)の至聖所(しせいじょ)にまで進んで(注2)、二つのケルビムの間から〔じかに、〕神の言葉を聴くことが許されたのである(注3)。

何という驚異、何という特権、何という(さいわ)い・・。

ことに私のような者にとって!


 ああ、私は〔大いなる〕恩恵の下に〔、今にも〕押し潰(つぶ)されそうである。

神が私に対して為(な)された愛の聖業(みわざ)は、あまりに畏(おそ)れ多い。

〔5-③〕
これらは、〕いずれも無償で受ける〔神からの〕賜物
(たまもの)であるとはいえ、思えばあまりにも過分(かぶん)である。

そら怖ろしいまでに〔、私に〕不相応である。

 

私は過去の恩恵について感謝しようとするとき、私のこころを適切に表わすべき一語さえも、見いだせない

ただ時々、次のような不整な言葉が私の唇を破って爆発するのみである。


ああ神様、〔恵みは〕あまりにも〔十分〕過ぎました!」、

「〔ああ神様、〕何と御礼申し上げましょうか!」、

感謝、感謝、感謝。また感謝です!」、

神様、どうかこの漲(みなぎ)る感謝の苦しさをご覧ください。そして〔私の感謝を〕すっかり受け入れて下さい!」

これらの言葉のみである。

〔5-④〕


今これらの事を追想して、わが内にわが魂を注ぎ出す。

(詩篇 42:5b)


追想に基づく現実の認識は、痛みのために私の霊魂(たましい)を溶かして地に流れ出させる。

 

しかし追想そのものの比類(ひるい)なき甘さは、私を酔わせ、感謝のために〔、わが〕たましいを水のように神の前に注ぎ出させる。

これは、口に〔言い〕表わすことのできない深き、深き讃美の歌である。

そして、これほど〔まで〕に大いなる過去の恩恵は、それ自体が永遠に神と私とを繋(つな)ぐ楔(ちぎり)として、なお余りある

 

今より(のち)たとえ神はどのように私を扱われ〔たとし〕ても、私の心が彼から遠ざかることは、絶対に不可能である。

 

かえって〔他の〕多くの人の経験しないような特別の苦難が私のために留保されるのは、私にとって最も適切、かつ願わしいことではないかと〔さえ〕私は思う。

 

いずれにせよ美しき過去の追想は、神に対する私の信頼をいつまでも、尽きざるものとする

​〔つづく〕

 

♢ ♢ ♢ ♢

(原著:藤井武『旧約と新約』第30号、1922年11月。『藤井武全集 第4巻 詩篇研究』岩波書店、1971〔昭和46〕年9月、279~281項を現代語化。( )、〔 〕内、下線は補足

注1 ヘルモンの露(つゆ)

「見よ、兄弟〔たち〕が和合して共におるのは

 いかに美(うる)わしく、楽しいことであろう。

それは、(こうべ)に注がれた貴(とうと)い油がひげに流れ、

 アロンのひげに流れ、その衣の襟(えり)にまで流れくだるようだ。

またヘルモンの露がシオンの山〔々〕に下るようだ。

これは主(ヤハヴェ)がかしこに祝福を命じ、

とこしえに命を与えられたからである

(詩篇133篇、口語訳、〔 〕、( )内は補足)

注2 幕屋(まくや)

荒れ野の旅の「移動式聖所」。

出エジプトの時に、シナイの荒野において、神からユダヤの民に造るように命じられた(出エジプト記40章)。

第一に、幕屋はこの世における「聖なる空間」であり、神が臨在する場所である。

第二に、幕屋は神が自ら積極的に人と交わる空間でもある。

つまり、幕屋は神と人とが交わる空間でもある。換言すると、礼拝の場である。

その後、幕屋は統一王国時代にはソロモン神殿に継承され、さらに第2神殿、シナゴーグ(ユダヤ教の会堂)へと継承された。

 

新約時代になるとイエス・キリストの受肉(=神の独り子が人となられたこと)と十字架の死により、幕屋の役割は終わったとされる。

イエス・キリストが神殿(=神を礼拝する場)となったためである(ヨハネ 2:19~21)。

(参考文献:聖書協会共同訳『聖書』「用語解説」 45項、『岩波 キリスト教辞典』岩波書店、2002年、1058項)

注3 至聖所(しせいじょ)

聖の聖」(Holy of Holies)、つまり最も神聖な場所という意味で、神殿の一番奥の間や、幕屋の奥に位置した。

至聖所には、神の臨在の象徴である「契約の箱」と2体のケルビム像とが置かれていた(出エジプト記25:18~22)。

聖所との間は幕で仕切られており、大祭司が年に一度「贖いの日」に入るほかは、誰も入ることが許されない場所とされた(レビ記16章)。

参考文献:聖書協会共同訳『聖書』「用語解説」 32~33項、『新聖書大辞典』キリスト新聞社、1997年、595項

注4 ケルビム

語源的には、アッカド語のカルーブ(祈る者)に関連する語。

ケルビムは人間の顔を持ち、翼を持った天的な動物と想像され、超人間的な力を象徴している。

創世記(3:24)では楽園の番人、詩篇(18:11)では神の乗り物と見なされている。

至聖所には一対のケルビム像が置かれていた(列王記上6:23以下)。ここから、神は「ケルビムの上に座しておられる方」と呼ばれている(詩篇80:2)。

参考文献:聖書協会共同訳『聖書』「用語解説」 29項、上掲『新聖書大辞典』480~481項

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