聖書に学ぶ 011

2021年8月14日改訂

原著:藤井 武

現代語化:タケサト・カズオ

詩篇研究

鹿が渓水を慕い喘ぐがごとく

私の詩としての詩篇42篇2~6節

〖鹿が渓水を慕い喘ぐがごとく〗 ⑴   ⑶   ⑷     

*     *     *  *
                             

〔3〕

 

彼らが一日中わたしに向かって
「おまえの神はどこにいるのか」と言い続ける間
涙は昼も夜もわたしの糧
(かて)であった。

(詩篇42:4)

〔3-①〕
私の深大な悲痛を見て、ある人々が私を非難して言った。


彼は神に頼る者ではないか。彼は日頃、神の愛を説いて信仰を人に勧める者ではないか。

 

それなのに〔一体、〕何事か。

 

今、自らがなやみに遇(あ)って、聞き苦しい歎声(たんせい)を漏らすとは語注1)

 

なぜ、讃美または感謝の言葉のみを連発することができないのか。

 

なぜ、泰然(たいぜん)として、怒涛(どとう)を排して屹立(きつりつ)することができないのか語注2~4)

 

神が彼を助けるべき時は、(まさに)今ではないか。

 

彼の神は結局、頼(たの)むに足りない影にすぎないのか。彼の信仰は要するに、一個の思想にすぎないのか」と。


そして、これらのすべての非難を約説(やくせつ)して、彼らは私に向って問うて言う語注5)

おまえの神はどこにいるのか」と。

〔3-②〕
(ののし)る者の言葉は、私の心に憤慨(ふんがい)と悲痛の奇異な混交(こんこう)を惹(ひ)き起させる語注6)

 

なぜかといえば、それはひどく当らず、〔同時に〕またよく当つているからである。


神に頼る者には深刻な悲哀や神を見失うという経験などあるべきでないと予測することにおいて、彼らの心理は憤慨すべく浅薄(せんぱく)である。

〔3-③〕
神が期待される〔本来の〕美しき人生に照して、現実の人生を直視せよ。

 

そこには、限りなき悲哀の原因が満ちてはいないか。

罪とそれに基(もと)づくすべての禍(わざわい)〔の実相〕は、乾くことを知らぬ涙に値すべき悲劇ではないか。

 

人生について最大の悲哀を経験する者は、実に、われらの信頼する神ご自身ではないか

 

彼は悩みを知り、悲哀(かなしみ)の人であった」(イザヤ53:3)とは、預言者〔イザヤ〕が神の独(ひと)り子(キリスト)を呼ぶのに用いた最も適(ふさ)わしき名ではないか

 

ああ幸(さいわ)いだ、悲しむ者」とは、イエスが山上、高らかに叫んだ福音ではないか

〔3-④〕
私はあえて言う。

純な悲哀を解しない者は、未(いま)だ人生を解しない者である、と。

 

民の娘の傷を手軽に癒やし、平安などないのに「平安だ、平安だ」言う者は、偽(にせ)の預言者にきまっている(エレミヤ 8:14)。

 

本来あるべき本当の人生の美しさと、あるがままの呪わしさとを〔現〕実〔経〕験した者は、みな高調(こうちょう)な悲痛の叫びを上げた。

わたしは嘆(なげ)きのために疲れ果てた。
 夜毎
にわが寝床を浸(ひた)し、涙をもってわが床を濡(ぬ)らす」(ダビデ、詩篇 6:7)。

わが目は涙のために潰(つぶ)れ、わが腸(はらわた)はもだえ、わが肝〔臓〕は地に注ぎ出される」(エレミヤ哀歌 2:11)。

わが心腸(はらわた)はモアブのために、
 琴
のように震(ふる)え、
わが心はキル・ヘレスのために、
 笛のように泣く
」(イザヤ 16:11)。

私は信ずる。

人生の(わざわ)いを如実(にょじつ)に深刻に味うことのできるこころは、神のわれらに与えてくださる最大の賜物(たまもの)の一つであることを。

 

神はご自分の子らを、まずは人〔間〕らしい人〔間〕とされる

 

兄弟の死を悼(いた)んで泣くマリヤを見て、共に「涙を流され」たイエスの心を持たない者は、たとえ何であろうとも神の子ではない〔ヨハネ 11:33~35〕。

 

神に頼る者に、悲哀は無くならない。

かえってそれは、ますます深くなってゆくのである。

〔3-⑤〕
ある意味において、神の姿を見失うという経験は信者として恥辱
(ちじょく)であろうか。

果して、そうであろうか。


仮りに多くの人の考えるように、そうであるとしよう。

だとすれば旧約〔聖書〕の詩篇はまさに、恥辱(ちじょく)の記録に違いないことになる。

 

疑う者は、自分の詩篇を取上げて、今一度、これを通読するがよい。

 

そうすれば、詩人らは繰返し、また繰返し、見失った自らの神を呼び求めた〔ことが確認できるであろう〕。

「〔神〕ヤハヴェよ、なにゆえ遠く離れて立たれるのですか。

なにゆえ悩みの時に身を隠されるのですか。・・・

ヤハヴェよ、立ち上がってください。

神よ、御手(みて)を上げてください。苦しむ者を忘れないでください」(詩篇 10:1、12)。

ヤハヴェよ、いつまでですか
あなたは永久にわたしをお忘れになるのですか。
 いつまで、御顔
(みかお)を隠されるのですか。


いつまでわたしは魂(たましい)に憂(うれ)いを懐(いだ)き、
 日々、心に痛みを覚え
いつまでわが敵はわたしに対して高ぶるのですか。


わが神、ヤハヴェよ、わたしを顧(かえり)み、わたしに答えてください。


わが眼を明らかにしてください
 わたしが死の眠りにつくことがないように
」(13:1~3)。

わが神、わが神、
なにゆえ、私を見棄
(す)てられたのですか。


なにゆえ、遠く離れて私を救わず、わが嘆きの声を聴かれないのですか。


ああ、わが神よ、昼、私が呼んでもあなたは応(こた)えず、
夜もまた、私は平安を得ない
」(詩篇22:2、3)。

ヤハヴェよ、あなたは恵みによって、
 わたしを強固な山の上に立たせてくださった。


しかしあなたが御顔をかくされたので
 わたしは怖
(お)じ惑(まど)った。


ヤハヴェよ、わたしはあなたに叫(よ)ばわり、
 主に向かってわたしは恵みを請い求めます
」(30:8、9)。

ヤハヴェよ、あなたはご覧になりました。
 黙っていないでください。
 主よ、わたしから遠ざからないでください。


わが裁(さば)きのために、わが神よ、わが主よ、
 わが争いのために、起きて目覚めてください
」(35:22、23)。

わが涙を見て見ぬふりをしないでください・・・


わたしが去って、いなくなる前に
 わたしから眼をそらして、わたしを喜ばせてください
」(39:13、14)。

ヤハヴェよ、何故(なぜ)あなたは永遠(とこしえ)にわれらを見棄てられるのですか。

何故、あなたの牧場の羊に向かって怒りの煙を吐くのですか。


思い起こしてください、
 昔あなたが買い取られたあなたの集
(つど)い、嗣業(しぎょう)として贖(あがな)われた部族を、
あなたが住まわれたシオンの山を
」(74:2、3)。

主は永遠にわれらを棄てられるであろうか、
 再び、恵みを施
(ほどこ)されないであろうか。


その慈(いつく)しみは永久に去り、
 その約束はいく代までも廃
(すた)れるのであろうか。


神は恵みを施(ほどこ)すことを忘れ、
 怒って、その憐みを閉ざされるのだろうか
」(77:8~10)。

主よ。あなたが真実をもってダビデに誓った
 かつての慈愛
(いつくしみ)はどこに行ったのですか」(89:50)。

ヤハヴェよ、帰ってきてください、ああ、いつまでなのですか。


 あなたの僕(しもべ)らを憐れんでください」(90:13)。

ヤハヴェよ、あなたはわれらを棄て、
 われらの軍勢とともに出陣してはくださらない
」(108:12)。


同じような響きの言葉が〔詩篇の〕至る所に満ちている。

 

まことに詩篇の半(なか)ばは、てられた霊魂(たましい)がなお、どこまでも神に縋(すが)り、神を放すまいとする悼ましき格闘の歴史である(注1)

〔3-⑥〕
そして、この悼ましき霊魂の格闘が比類なき深刻さにおいて現われたものは、実に、十字架上におけるイエスの経験であった。

 

太陽の最も高い真昼時から暗黒が全地を蔽(おお)うこと3時に及び、

ついに彼の口から詩篇〔22篇〕の言葉そのままに、「エロイ、エロイ、レマ、サバクタニ。」との大声が響き出るに至つた時、神の独り子自らが神に棄てられた経験を嘗(な)めたのである〔マルコ 15:33~34、注1〕。

 

世々の聖徒(せいと)らと同じように、しかも彼らよりもはるかに痛切に、イエスもまた確かに一たび、父なる神の姿を見失ったのである。

​〔つづく〕

♢ ♢ ♢ ♢

(原著:藤井武『旧約と新約』第30号、1922年11月。『藤井武全集 第4巻 詩篇研究』岩波書店、1971〔昭和46〕年9月、274~278項を現代語化。( )、〔 〕内、下線は補足

語注1 歎声(たんせい)

いたり感心したりして出す、ため息や声。

語注2 泰然(たいぜん)

落ち着き払っていて物に少しも動じないさま。

語注3 怒涛(どとう)

激しく荒れ狂う大波。

語注4 屹立(きつりつ)

​山などが高くそびえ立っていること。

語注5 約説(やくせつ)

かいつまんであらましを説明すること。また、その説。

語注6 混交(こんこう)

異質な、さまざまなものが入り交じること。

注1 詩篇と魂の叫び
大小150の作品を集めた『詩篇』は、ヘブライ語でテヒリーム(tehillim)と呼ばれる。「讃美」という意味である。


神を(たた)える歌だけでなく、個人または民族の苦難の嘆(なげ)が、救いを求める祈りが、さらには教訓詩なども数多くそこに含まれているが、『詩篇』を編纂(へんさん)した人たちはそれらすべてをテヒリームという語にまとめたのである。

 

魂の悲痛な叫びでさえも究極的には神への「讃美」へと昇華(しょうか)されてゆくし、またそうあらねばならない。詩篇編纂者たちはそう理解したのであろう。
(月本昭男著『詩篇の思想と信仰 Ⅱ』新教出版社、2006年、「はしがき」より引用)

注2エロイ、エロイ、レマ、サバクタニ

Eloi,Eloi,lama sabachthani.

アラム語のギリシア音写で、「わが神、わが神、どうして私をお見捨てになったのですか」の意味(マルコ 15:34)。

十字架上のイエスの最後の七言の一つで、詩篇22:2からの引用。

このアラム語の引用は、イエスがいかに旧約聖書の日常語アラム語に親しんでおられたかを示している。

(参考文献:『新聖書大辞典』キリスト新聞社、1971年、238項)

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