信仰と人生

詩歌 064

2022年1月6日更新

​讃美歌121番

作詞:由木 康 1923年

作曲:安部正義 1930年

イエスの生涯

馬槽のなかに

- この人を見よ -

 

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詩歌017八木重吉十字架

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まぶねのなかに

作詞:由木 康 1923年
作曲:安部正義 1930年


1.                                        

馬槽(まぶね)なかに 産声(うぶごえ)あげ、
木工
(たくみ)家に 人となりて、


貧しき(うれ)い、生くる悩み、
つぶさに
(な)めし この人を見よ。

2.
(しょく)する(ひま)も うち忘れて、
(しいた)げられし ひとを訪(たず)ね、


友なき者の 友となりて、
こころ
(くだ)きし この人を見よ。

3.
すべてのものを 与えし末
(すえ)
死のほか何も 報
(むく)いられで、


十字架の上に あげられつつ、
敵を赦しし この人を見よ。
(注1)

4.
この人を見よ、この人にぞ、
こよなき愛は 顕
(あらわ)れたる、


この人を見よ、この人こそ、
人となりたる 活
(い)ける神なれ。(注2、3)

​大 意

1.
わびしき〕飼い葉桶
(おけ)の中に 産声を上げ、
木工の家に 人として成長し、


貧乏の憂い 生きる悩みを
つぶさに
めた この人を見よ。

2.
食事をする時も 忘れて、
虐げられている 人を訪ね、


友なき〔孤独な〕者の 友となって、
心を砕いた この人を見よ。

3.
すべてのものを 〔人々に〕与えた末に、
死のほか何も 報いられず、


十字架の上に 上げられながら、
敵を赦した この人を見よ。

4.
この人を見よ、この人にこそ、
無窮
(むきゅう)愛が 現われた、


この人を見よ、この人こそ、
人となった 活ける神だ。

♢ ♢ ♢ ♢

注1 イエス、自分を十字架につける人々のために祈る

「されこうべ」と呼ばれている所に来ると、そこで人々はイエスを十字架につけた。犯罪人も、一人は右に一人は左に、十字架につけた。

その時、イエスは言われた。

父よ、彼らをお赦しください。自分が何をしているのか分からないのです。」

(ルカ福音書 23:33~34)

注2 イエスの死

兵士たちが、イエスを十字架につけたのは、午前9時であった。〕

昼の12時になると、全地は暗くなり、3時に及んだ。 

 

3時にイエスは大声で叫ばれた。

エロイ、エロイ、レマ、サバクタニ。」これは、「わが神、わが神、なぜ私をお見捨てになったのですか」という意味である。 

 

そばに立っていた何人かが、これを聞いて、「そら、エリヤを呼んでいる」と言った。

 

ある者が走り寄り、海綿に酢を含ませて葦(あし)の棒に付けてイエスに飲ませ、「待て、エリヤが彼を降ろしに来るかどうか、見ていよう」と言った。

 

しかし、イエスは大声を出して息を引き取られた。すると、神殿の垂れ幕が上から下まで真っ二(ぷた)つに裂けた。

 

イエスに向かって立っていた百人隊長は、このように息を引き取られたのを見て、まことに、この人は神の子だった」と言った。

(マルコ福音書 15:33~39)

 

注3「エロイ、エロイ、レマ、サバクタニ」マルコ 15:34

「これ(15:34)は、詩篇第22篇1節の「わが神、わが神、なにゆえわたしを捨てられるのですか」の引用で、アラム語の音訳である。・・

わたしの神、わたしの神、なぜ、わたしを、お捨てになりましたか

この〔十字架上の〕イエスの言葉(マルコ 15:34「エロイ、エロイ、・・」)の意味は、聖書に翻訳されている通りで、特別の説明を必要としない。

ただイエスが「わたしの神」と呼びかけられた例は、他に見られない。これは、どうしても詩篇第22篇1節の引用と見るほかはない。

イエスは〕熱情が爆発した場合は、「父よ」と呼ばれるのが常であった〔からである〕。

しかし、ここでは神は審判者としての神であるから、「父よ」と呼ぶことができなかったとも考えられる。

原語の〕「なぜ」は釈明を求める意味の「どういう訳(わけ)で」〔という語〕であるが、〔言葉としては、〕嘆きと恨(うら)みの意味をも含みうる。

 

原語の〕「お見捨てになりましたか」〔という語〕は、「置き去りにする」とか「見殺しにする」の意で、それまで愛と信頼の親しい関係が続いていたことを前提とする。

*十字架上の叫び(「エロイ、エロイ、・・・」の史実性について

1.

この〔マルコ福音書15章34節の〕言葉は、ちょっと読んだだけでは、「父とわたしはひとつである」と日頃語られた神の子イエスの言葉としては、予期しがたいものである。

ことに、前夜ゲッセマネの園で夜を徹しての祈りの結果、すべてを神の御心(みこころ)に任せられた後であるため、その史実性を疑う〔聖書〕学者もいる。

しかし、イエスの口から予期されないことが語られたとしても、そのために〔歴〕史〔的事〕実でないということにはならない

人を(つまず)かせるかのような言葉(15章34節)が、イエスの言葉としてわざわざ記されていることは、かえってその史実性(=疑うことのできない歴史的事実を記したものであること)を証明すると考えられる。

イエスの言葉でもないのに、わざわざ、人を躓かせるような言葉を、聖書記者が福音書に書き加える必然性はないからである。〕

・・・

大切なことは、イエスのこれらの言葉が果たして何を意味するかである。〔つまり、〕イエスはいかなる意味を持たせて、これらの言葉を発言されたかとうことである。

この言葉の意味ついて、いろいろな学者が様々な解釈を試みている。〕・・イエスのこの言葉を、絶望の叫びであるという学者もあれば、勝利の歌であると主張する学者もいる。・・

神の子イエスが最後の瞬間に絶望、不信の言葉を発するわけはないとの前提のもとに、イエスのこのことばは、イエスの勝利の歌であるとの見方をする学者もいる。

彼らは、詩篇第22篇全体に照らして〔イエスの言葉を理〕解しようとする。

この解釈によれば、〕詩篇第22篇1節の言葉はいかにも絶望的な響きを持つが、イエスは22篇1節を口にしながら、心には詩篇の後半にある勝利と感謝を思い浮かべられていた、と想像する。

この解釈に立つ聖書学者〕メンジースは、「一つの詩の最初の言葉を引用する者は、ただその言葉だけでなく、その詩の後の部分または思想の流れ全体を思い浮かべる」と言う。

詩篇第22篇は前後二つの部分に分かれ、前半1~21節は敬虔な人が何かの原因でひどく苦しみ、不信者に嘲笑された時に、神に悩みを訴えたものである。

一方、〕後半22~31節は、勝利を与えて下さる神の恩恵に対する感謝と讃美〔の言葉〕である。

しかし、以上の解釈に対して〕ローマイヤーは、われわれはイエスのこの言葉を「水増し」して読んではならないイエスは、われわれの心をもっては計り知ることのできないほど、神に対して絶望されたのであって、その偽わざるところが、イエスの言葉となって現れたのである、と言う。

信仰は、最初から動揺することのあり得る性格と要素とを備えている。信仰は彫刻にような〔命なく〕固定したものではなく、〔生き生きと〕流動してやまない命であるから、動揺するのは当然である。

ただそれが正常な状態にあって澄みきっているときには、動かないもののように見えるだけのことである。

実際、〕イエスの生涯においていも、荒野の試み、フィリポ・カイザリアでの誘惑、ことにゲッセマネではイエスの信仰は大きく動揺した。

いわんや、十字架上における最後にして最大のサタンとの戦いの瞬間に、イエスの信仰が烈(はげ)しく動揺したのは当然である。

イエスのこの言葉の意味の深さは、人間の心をもって計り知るには余りに深すぎて、適切な解釈は一つも見いだされない。いずれの解釈もみな、不適切である。

しかし、不適切さの最も少ない解釈は、イエスのこの言葉の中に、底知れぬ寂寞(せきばく)を見いだすことであろう。

その寂寞さの中にあって、イエスは罪の恐ろしさを余りにも深く感じられたため、神との親しき関係が罪に遮(さえぎ)られて分からなくなってしまったのではかなろうか。〔その結果、〕神の姿が見えなくなったのであろう。

迷子になった子供は、火がついたように泣きながら、親の後を追うものである。ちょうどそのように、イエスは、見えなくなった神の姿を求めて叫ばれたのである。

 

確かに「エロイ、エロイ、レマ、サバクタニ」の叫びは、言葉通り〕絶望の叫びである。

いつも神の懐(ふところ)におられたイエスが(ヨハネ 1:18)、神の姿を見失われた時、絶望の叫びを発せられたのは当然のことである。

イエスのこの叫びは、絶望の叫びであるが不信仰ではない。「わたしの神様」という神への呼びかけが、不信仰でないことを証明している。

イエスが人に代わって人の罪を負われた瞬間、イエスには神の姿が見えなくなったとしても、〔父なる〕神はイエスを見守り給(たも)うた

イエスは絶望の叫びを発しながらも、なおかつ神を呼び求められた

恐らくこの瞬間はイエスの全生涯において、最も神に近くあられたときであろう。イエスご自身は、神に見捨てられたと感じられた。しかし実際には、最も神に近くあられた。

グローバーは、「イエスのこの言葉以上に、感情(=神に見捨てられたという絶望の思い)と事実(=実際には、神の最も近くにおられたこと)との間の距離の大きな発言は、他には見られない」、と言っている。

結 び

絶望の(ふち)に陥っても、なお神に寄りすがられたイエスの信仰によって、人の救いが完成した。〔実に、〕驚くべきことである。

一概に「十字架による救い」というが、それはスムーズに、こともなげに成し遂げられたものではない

生涯の最後の瞬間に、「エロイ、エロイ、レマ、サバクタニ!」という絶望の叫びを発しながら、なおかつ神に寄りすがられたイエスの信仰の驚くべき深さによって、初めて十字架の救いが完成されたことを記憶すべきである。

われわれは十字架上のイエスの最後の場面を見ることにより、限りなき「恐れ」を抱くが、それと同時に他方においては、人の思いに過ぐる平安を与えられるのは感謝である。

罪に(さえぎ)られて神の姿が見えなくなったその時、イエスは絶望の叫びを発せられた。

われわれはそのことにより、「罪」なるものがいかに恐るべきものであるかを知って、身震(ぶる)いする。

しかし、罪なきイエスが罪あるわれわれ一人一人のために(=私のために)、身代わりとなって十字架につかれた。

われわれは罪のゆえに神の姿を見失っても、そして絶望の淵に陥っても、主イエスに倣(なら)って、「わたしの神様」と言って寄りすがれば、イエスの場合と同じく、われわれの罪は赦され、神は再び御姿(みすがた)を現し給(たも)う。

神を仰ぎ見ることにより、価値なきわれわれが価値ある者とされ、《神の国》に相応(ふさわ)しき者とされることは、感謝の極(きわ)みである。 

福音の真理のすべては、十字架による救いにかかっている。イエスの十字架こそは、われわれの喜びであり、希望であり、感謝である。

(出典:豊田栄著『マルコ福音書註解 3みすず書房、1984年、「十字架上の死(一)」1,593~1,599項より引用。( )、〔 〕内、下線は補足)

注4 豊田栄『マルコ福音書註解』(みすず書房)について
序言より

聖書研究の意義ならびに目的


「聖書は神が人類に与え給うた最大の賜物(たまもの)であって、聖書を離れてはキリスト教はなく、信ずることもあり得ない。


信仰は学問ではない。信仰は神の愛、すなわちキリストの十字架をもって人類に示された神の恩恵を、幼児のごとく素直に受け入れることであって、それ以外の何物でもない


それにしても、信仰が生きた人生の事実である限り、多くの動揺をきたすことも、われわれが実生活において、しばしば経験するところである。

 

この動きやすい信仰を〔確固たる〕巌(いわお)の上に置くためには、信仰にある筋を通すことがどうしても必要であり、その最良の役割を果たすものは聖書の研究である。


かくて聖書の一言一句をもゆるがせにせず、丹念に掘り下げて研究し、それを基礎として全体の意味を了解することが、信仰生活の上に極めて大きな意味を持つこととなる。


ここに『マルコ福音書註解』第1号を世に送る。・・この号においても、後に続いて毎月発行される分冊においても、終始一貫して前述の趣旨のもとに筆を進め、できうる限り懇切丁寧に説明するように努めた〔注:A5版1,700ページを超える膨大なものとなった〕。

 

これが現代における平信徒の参考書の一つとなることを私は期待する。・・・

 

神の御祝福により、この小著が聖書に親しむ人々のよき伴侶になるようにと祈ってやまない。

昭和41(1966)年4月10日
豊田栄

注5 豊田栄(とよだ・さかえ)略歴

人物紹介012安藝基雄豊田 栄〗へ

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